エッセイ‐Ⅰ

 

 ワルツとコルチゾン

 「ピアノ」の詩人ショパン、彼は数多くのワルツ曲を世に残しました。その調べは優雅で気品にあふれ、色々なドラマを私たちの脳裏に蘇らせてくれます。鹿野館で踊る貴族たちの姿、オードリヘップバーンがマイフェアレディの中で踊ってみせた軽やかなステップ・・・、まさにワルツは私たちをmerry-go-roundの世界に誘います。

 そのショパンのレコードの中で、特にお薦めしたいCDがあります。天才ピアニストと絶賛された、リパッティ演奏のショパンワルツ集で、最高傑作の一つとされています。(CD:EMI Angel CC33-3519)。リパッティは1917年にルーマニアに生まれました。その才能は天才と称されるにふさわしく、4才で慈善公演を行い、ブカレスト音楽院に特別入学が許可されるほどでした。その後、彼の完成と技術はより一層研ぎ澄まされ、17才の時国際ピアノコンクールに出場、結果は2位に入賞しました。しかしその時、審査員コルトーは審査結果に「許しがたい誤審だ!彼の演奏こそが優勝に値する」と憤慨し、即時審査員を辞任したとほどでした。そのような彼にデュカスは「我々に教えることは何一つない」と語り、プーランクは「神々しい精神性を持つ芸術家(Kunstlers von Gottlicher Geistligkeit)」と賛辞を送りました。

 しかしそんな彼に、静かに忍び寄る黒い影・・・、彼は不治の病に侵されてしまったのです。演奏旅行にもドクターストップがかかりはじめるようになり、1949年には病魔が急激に彼を衰えさせはじめたのです。その頃、アメリカで発見されたばかりのコルチゾンの注射が、病状の進行を遅らせるのに効果があることがわかり、彼にとって唯一の希望となったのです。しかし、新薬のコルチゾンは非常に高価で、注射代は当時で1日50ドルもかかりました。その窮状を伝え聞いたミュンシュやメニューインなどの音楽家や、彼の才能に魅了された匿名の好楽家たちから、相次いで善意による多額の支援金が集まり、たちまちのうちになんと何カ月分のコルチゾンが確保されるまでにいたったのです。

 コルチゾンの効果により彼の病状は19505月頃から小康を保ち、ピアノ演奏の収録が許可されるようになりました。しかし関係者の間では「コルチゾンの効果もせいぜい2カ月」という危機意識が流れ、彼の最後になるかもしれない収録に相応して、最高のセッテングが急ピッチで行われたのです。録音はスイスのラジオ・ジュネーブに決定。ピアノはハンブルグのスタインウェイ本社でコンサートグランドが特別に作られました。録音装置は仏HMVが米コロンビアに貸与中の最新型装置を急遽スイスに回送させるなどし、当時の最高水準のセッティングが実現したのです。

 天才リパッティのために、数多くの関係者の努力と協力によって19507月、2週間にわたりEMIで収録されたのが、この「ショパンワルツ集」のCDです。収録中彼は病魔に蝕まれていく身体を横たえることなく、そして笑顔を絶やしませんでした。それは彼を支えてくれた総ての人たち・輝く太陽・どこまでも蒼い空・スイスの夏の自然・・・、彼をとりまく総てのものに感謝するかのようでした。

 「完全にマスターした曲でなければ公開の席では絶対に弾かない」彼のPerfectionismは最後の最後まで変わることはありませんでした。それゆえ1音符でも疑問の残る曲はプログラムに載せることはなかったのです。収録中の彼は細心精緻を極め、納得するまで何度でも弾き直す彼は、まさに「命と引き替え」そのものだったと言われています。

 収録を終えた同年9月、フランスのブザンソン音楽祭でリサイタルが開かれました。この時すっかり衰弱し、歩く事さえやっとの彼は、「約束を果たしたい」という一念で周囲の反対を押し切り、舞台に上がったのです。その時の彼の弾くショパンのワルツ、その調べは変わることなく気品に満ち、あふれる感性で聴衆を魅了しました。しかし13曲目まで弾いたところで遂に力尽き、もう二度と鍵盤にふれることはなかったのです。享年33才、あまりにも早い天才の死。病名は「白血病」でした。

 このワルツを聴くたび、崇高で神秘的な宇宙のイメージが私の身体を包み込みます。リパッティの芸術は、これからもずっと私たちの心の中に一筋の光を灯してくれることでしょう。

 

  ドレミと進化

 前回はショパンのワルツの話をしましたが、そもそもどうして音楽がこの世にあるのでしょうか」?ギリシャ神話に登場する芸術の神「ミューズ」がamusementとして私たち人類に授けてくださったのかもしれません。それでは、地球以外の惑星には、果たして音楽はあるのでしょうか?

 「宇宙へ向かってレコードを載せたロケットが発射された」とのニュースが以前に紹介されていました。そのレコードは金で作られており、銀河系内の地球の場所を伝えるほかに、地球の地理、言語、生活など人類からの様々なメッセージが含まれています。さらに、その中には文化の一つとしてベートーベンの音楽も収録されているとのこと。遠い惑星で高い文明を持つ生物がこのレコードを手に入れたら、その星のコンピューターで解析して地球の音楽を聴いているかもしれませんね。でも、地球の音楽の音階をちゃんと読み取れるかどうか不安です。

 私たちが通常聴く音楽は、1オクターブの中に12個の音がある音階を使っています。現代音楽の中には、1オクターブの中に、19個、31個、43個、53個の音がある不可思議な音階もあるようですが、私は12個でよかったと思います。もし、53個もあるとすれば、ピアノを弾くことが好きな私たちにとって、鍵盤があまりに多すぎて困ってしまいます。そして、世界最高のピアニストは、間違いなく千手観音になってしまいますよね・・・。

 それにしても、なぜ12個になったのでしょうか?これは、かの有名なピタゴラス(直角三角形の辺の長さの定理を見つけた彼)が、この音階を作ったのです。余談になりますが、小学校の理科の実験で「琴」を作ったように記憶しています。紙の箱にピンと張った糸を付けた物で、コマの位置によって音程が変わるというものでした。最初の長さの音を「ド」とすれば、糸の長さが1/2になれば、1オクターブ上の「ド」になります。2/3では「ソ」、3/4では「ファ」、4/5では「ミ」の音になるということを皆さんは知っていましたか?どうです、不思議ですね!もしかしたら、ピタゴラスは、宇宙の

かなたの光輝く星から派遣されて、音楽の基礎を地球に伝えてくれたのかもしれませんね。

 宇宙のイメージを表現した曲があります。題名は「ミクロコスモス」で、近代作曲家バルトークが子供のために作曲したピアノ作品集です。全6巻で総計153の小曲から構成されており、誰でも簡単に弾けます。5拍子や7拍子の曲、長調か短調かわからない曲、右手と左手の調が違う曲、など子供から大人まで楽しめる作品で、現代音楽に対する感性が磨かれます。羽田健太郎が演奏したCD(BY38-3:1,4,5巻、APCC-1:2,3,6)なども出ています。内容は「大宇宙」的ですが、バルトークが控えめな性格であったのか、「ミクロコスモス」と名づけたとのことです。

 さて、私は先日、「マクロコスモス」という曲にたまたま遭遇しました。最近トピックスとなっているα波ミュージックに関連した音楽です。CDの表題は「θ波:リラクセーションのためのメンタル・コントロールーFlying Version」です(APCE-5282, Apollon, 1993)。この曲を聴くと、フワフワと宇宙遊泳しているような気分になってきます。

 「マクロコスモス」が大宇宙であれば、「ミクロコスモス」は小宇宙であり、人間の身体そのものであると比喩されています。身体を造る細胞をミクロの世界まで小さくしてとらえた時、宇宙の構成とよく似ているからなのでしょう。私たちの身体の中には、宇宙があると言えるのです。不思議ですが何となくロマンティックですね。

 宇宙には数え切れない星や惑星、星雲があります。それらが、時には静かに、時には大爆発を起こしながら、バランスを保っています。身体の中に宇宙を持った私たちのとって、細胞の一個一個、遺伝子の一個一個が星雲や星に相当するのでしょうか?これらが、f分の1「ゆらぎ」のごとく、規則性と意外性のリズムをうまく奏でる音楽家として、宇宙の膨張や、生物の進化をうまく指揮しているのかもしれませんね。

 

  潜在意識とオルゴール

 先日、映画誕生百周年記念作品である「RAMPO」(松竹1994)を見た。主人公は江戸川乱歩自身。乱歩は彼の分身たる明智探偵として、「イマジネーションは現実の何物よりも強い」というテーマを追いかけつつ、自分の小説の世界に入りこんでしまう。

 ポスターには「この映画には3つの特殊な効果がございます」とある。乱歩らしいフレーズだが、映画によってその謎が解きあかされていく。1つめは「サブリミナル」な効果である。特定の映像を映画に知覚できないほど瞬間的に挿入しており、コーラやポップコーンの売上を伸ばすために使用されたことがある。人間の潜在意識のレベルを刺激して、本能や感情に直接訴える手法だ。2つめは「1/fゆらぎ」である。ffluctuation,frequencyの頭文字で、振動、ゆらぎ、周波数を意味する。これは、視聴覚的に「ここちよさ」を感じる映像や音には、ある特徴があることを明らかにした理論である。映画の中では映像と音に1/f模様がデザインされ、快感を呼び起こす。3つめは「フレグランス」だ。人間の五感(視覚、聴覚、味覚、触覚、臭覚)の中で、最も不鮮明とされる嗅覚に働きかける。フェロモンを含んだ香りを劇場に流すことにより、我々を画面の中に引きずり込んでゆく。歴史上、最高の美女といわれるクレオパトラはじゃ香に魅いられた女性の一人であった。9世紀の医学者はじゃ香の効能として、催淫効果に加えて、発汗促進、強心作用、気力の充実など、健康の維持増進にも役立つと述べている。最近、植物の抽出物や香りを用いたアロマセラピー(芳香健康法)が話題となっている。ミントは疲労を回復し、ラベンダーは不安を解消し、ジャスミンによって人は幸福感に包まれるという。

 これらの特殊効果のためだろうか?確かに、「RAMPO」は私の理性と感情を大きく揺さぶり、私を映画の虜にしてしまった。ストーリーでは動と静、毒薬と媚薬、映像では喧騒と静寂、規則性と意外性、また音楽では和音と不協和音、オルゴールとオーケストラなどがコントラストをなして映画の中で複雑に絡みあっている。

 私たちのイマジネーションは、音楽により大きな影響を受ける。映画のBGMにはいろんな工夫がみられ、リズムでは、4拍に1度擬似音を入れたり、心臓の拍動に似せた音を次第に大きくしたりして、観客の心と身体にプレッシャーをかけてくる。ミステリアスな旋律を分析すると、メロディーは完全5度、増4度、長3度、2度の音幅をもって流れていた。そして、落ちつく和音と不安定で未解決の和音をうまく用いている。これらは快と不快を交互に感じさせる目的なのだろう。

 また、オルゴールの音色は「甘いささやき」や「やすらぎ」をイメージするものだが、使う場面によっては、より一層、不安や恐怖を感じさせるものとなりうる。映画を見た人がその音色を聴いた時、そのシーンが思い出されて背筋が寒くなるかもしれない。このように、映像と音楽が一体となって潜在意識の中にインプットされ、音楽を聴くだけでその情景が脳裏に甦ってくる。まさに、音楽は意識をも支配してしまうのだ。

映画の中に、編集者である横溝正史が登場し、「先生の小説は、現実をも動かしてしまうのですよ」と乱歩に語りかける場面がある。その言葉に私は、「もしかしたら、我々のイマジネーションは、現実の何物よりもとてつもなく大きなパワーで、未知なる世界でさえ現実化させてしまうのだろうか」と思わず息をのんだ。

 ユングの心理学によると、我々の心は意識していないレベルでつながっているとのことだが、人と人との間には、目にみえない波動が行き来しているのかもしれない。ところで、スポーツ界においては、アイススケートの黒岩彰はイメージトレーニングで手足の先端までに意識を集中できるようになった。体操の池谷と西川を育てた山口コーチは潜在意識のレベルまで訓練したといわれている。今後の我々に与えられたテーマはマインドコントロールにあるのだろうか?

資料 

1)「淡路香りの館」兵庫県津名郡一宮町 Tel:0799-85-1162, FAX:0799-85-1163

2) 橋本克彦著、コーチたちの闘い、時事通信社

 

  成長ホルモンとモーツァルト

 桜前線を追いかけるように北に向かった新潟への旅。平成6年4月、春の訪れを祝うような暖かい風の中で、日本内科学会総会が開催されていた。会場になった新潟県民会館近くの白山公園の桜が今が盛りと咲き乱れている。暖かい四国に生まれ育った私にとって、北の桜は春を待ちわびて色づいているかのように見え、淡い薄紅色の花たちは旅の疲れも忘れさせてくれた。

 県民会館を出て、ぶらりとあてもなく歩く由緒ある町並み。春風に誘われるように、古町通りにさしかかったとき、「モーツァルト」という文字が私の視野に飛び込んできた。

引き込まれるように店内に入ると、所狭しと並ぶクラシックのCDの数々。棚にはNaxosMarco Poloなど外国でプレスされたCDもあり、店名にふさわしいモーツァルトのものも多い。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、音楽をこよなく愛し、ピアノ演奏を趣味とする私にとって、この名前は瞬時にしていろんな想いを駆け巡らす。彼は1756年に生まれ、わずか3歳でピアノを正しく弾き、5歳でメヌエットを作曲、6歳からは宮廷などで御前演奏をしていたという。幼少の頃から「神童」と騒がれた、まさに早熟型の天才。彼の才能は満ちあふれていたが、彼にも一つだけ足りないものがあった。彼は身長150 cm以下という背丈しかなかったのである。

 私は内分泌学を専攻しており、この低身長は成長ホルモン分泌が不足したためと考えるが、それはなぜだろうか?考えてみれば、彼の生涯は旅と共にあった。わずか6歳にして、「ステージパパの元祖」といわれる父レオポルドと、ヨーロッパ各地に演奏の旅に出ることになる。馬車に揺られながらの長旅では、手足を伸ばし、ゆっくりと眠れることが少なかったであろう。「寝る子は育つ」といわれているように、成長ホルモンは眠っているときに一番多く分泌されることが知られており、成長期に熟睡できなかったことが第1の原因と考えられる。

 それに、第2の原因として、その時代の生活環境や衛生環境が悪かったことが挙げられる。レオポルドは7人の子供をもうけたが、生きながらえたのは三女のマリア・アンナとアマデウスの2人であることが過酷な環境を裏付けているようだ。その上、不規則な長旅では、バランスがとれた栄養を取れなかったこともあったに違いない。さらに、アマデウスは小児期に多くの病気を患っている。記録によると、6歳から11歳までに毎年、結節性紅斑、上気道炎、扁桃腺炎、腸チフス、関節リウマチ、天然痘と病魔に見舞われ続けた。抗生物質があるわけでなく、治療として悪い血を除くために瀉血などの原始的な治療が行われていた時代なので、いずれの病気も遷延したのが第3の原因であろう。

 最後に、父親との関係も原因の一つ。レオポルドは、早期に息子の才能を見抜き、音楽家として周到な指導をし、自分の仕事を投げ打ってでも息子のために尽くしたといわれている。しかし、また、息子を売り出そうという欲深い面も持っていた。最近、「愛情遮断症候群」という子供の疾患が知られるようになった。愛情がない家庭の子供の背は伸びないが、この親と別居すると急に背が伸びだすという。彼の場合は、逆に、多年にわたる父親の愛と支配が大きなストレスになったことは否めない。また、母親と離れた旅で、母の庇護を受けられることが少なかったのかもしれない。

 ところで、成長ホルモンは視床下部と下垂体のいずれもがうまく機能しなければ正常に分泌されない。彼の行動や性格から判断して視床下部機能に何か異常があった可能性も皆無ではない。1781年、彼がウイーンに安住の地を見つけた時はすでに25才、もう成長するには遅すぎる年齢であった。しかし、彼の残した数々の音楽は、無限に成長し続けている。魔笛、フィガロの結婚、数多いピアノソナタなど、今もなお親しまれ愛されているモーツァルト。もし彼が日本を旅することができ、ゆっくりと桜満開の白山公園を散策することがあれば彼の身長もあと5 cmくらいは伸びていたかもしれない。

 

 心と身体のリズムNo.1

 199411月、芸術の秋。山々の緑が赤や黄に色づきはじめた時、徳島県で活躍している歌手のコンサートが県の鳴門文化会館で行われた。身体を包むようなスポットライトの光、響きわたるソプラノの歌声とともに、私は伴奏ピアニストとしてアシスト役を務めた。歌の伴奏は簡単そうに見えるが、なかなか難しいものである。楽譜ではリズムは規則的に書かれているが、演奏自体は、歌詞やフレーズなどによって微妙に音符の間隔や強弱が変わり、常に音は揺らいでいる。歌手の心の「ゆらぎ」が、伴奏者の息とぴったり合った時にこそ、素晴らしい演奏となるのである。私は今回、徳島大学の吉森教授に伴奏の手ほどきを受けたが、音楽の真髄は「ゆらぎ」だったのか!と、改めて強く感じた。この「ゆらぎ」とは、宇宙の至るところに存在している。天体では地球の自転、天変地異、自然では、季節の移り変わり、夏の日のかげろう。動植物では、風に揺れる木の葉、小鳥や虫の音などにみられる。「ゆらぎ」は、元来、トランジスターなどの研究で発見されたもので、規則的なリズムがベースにあり、時々、意外なリズムの変調が含まれているものである。最近、1/f「ゆらぎ」理論が紹介されており、森羅万象はすべて1/f0--1/f1--1/f2の数式で表現できると言われている。例えば,1/f0とは、深夜放送終了後のテレビの画像と雑音は、まったく秩序のないカオスの世界で、見る人の神経を苛立たせる。一方、1/f2とは、正確に時を刻む時計にたとえられる。全く規則的な時計の振り子をじっと見ていると、催眠術をかけられたように眠たくなってくる。1/f01/f2との中間の1/f1近くのゆらぎのリズムが、自然界に普遍的に存在し,快い気分をもたらすという。

 この理論を考慮して作られたCDがあり、タイトルは「α波・1/fのゆらぎー大地からのおくりもの」(APCE-5044)。ジャケットには「心の安らぎ・ゆとりを求めるあなたに:α波・1/fのゆらぎ実測データに基づくナチュラルな音空間を贈ります」とあり,聴くと確かにリラックスしてくる。いろんな音楽の1/fxを調べて、xの値を求めた研究がある。x0-1には、ロックやジャズが位置し、x1-2付近にはバロック音楽が、そして真ん中のx1付近にはクラシック音楽、特にモーツァルトの音楽が位置するという。彼の音楽は、私たちに「やすらぎ」を感じさせることはよく知られているが、このように理論的根拠があるのだ。彼の旋律や、和音、リズムには、規則性と意外性がほどよくコンビネーションされている。少しづつ展開していく音楽が、適度な安心感と緊張感を与え、心を和ませるからであろう。

 最近、学生にモーツアルトの曲を聴かせながら勉強させると、IQ(知能指数)が上昇するという英国の新聞記事が注目されている。この理由として、彼の曲に共通する一定のリズムが学生の脳に働きかけて、記憶力を増進させるのではないかと推測されている。音楽にリズムがあるように、人の身体にもいろんなリズムが内在する。3種類のバイオリズムの存在が知られており、身体リズムは体力、耐久力、抵抗力に、感情リズムはムード、直感、精神力などに、知性リズムは思考力、記憶力、集中力などに関与している。これらは、それぞれ23日、28日、33日の約1カ月の周期を示し、気づかないうちに、我々の生活に影響を及ぼしている。また約24時間周期の体内時計もあり、体温やホルモン分泌を制御する強振動体と、睡眠覚醒サイクルを支配する弱振動体が、うまく協調しながら1日のリズムを形作っている。さらに短いリズムとして、脳波や心臓の拍動などが挙げられる。

 これらにはすべて「ゆらぎ」がある。胎児は,羊水中で母親の心音を聴きながら育っている.このゆらぎのリズムに対する快感が,無意識のレベルにインプットされ,生後も胎内の記憶が残っているのだろうか?次回は、心音について述べてみたい。

資料1)吉森章夫.徳島大学総合科学部長、徳島県音楽協会会長。徳島合唱団、ママさんコーラスなど多数の合唱団の指導・指揮者として活躍.

 

 心と身体のリズムNo.2

 前回に引き続き、今回も心と身体のリズムについて考えてみる。人は生まれる前には,お母さんのおなかの中で母親のある心臓の音を聴きながら育っている。さて、生後に泣いている赤ちゃんをあやす方法がいくつかあるので紹介しよう。まず,乳房やほ乳ビンを吸わせ、十分お乳を与えて空腹を満たしてやることだ。次に,手足を毛布で包んで押さえる。毛布による温熱効果や、よい肌触りによる皮膚感覚効果があるらしい。乳児は様々な刺激で興奮し、手足をいくら動かしてもどうすることもできないという苛立ちが生じるという。従って、毛布で手足の動きを押さえることが、鎮静効果がもたらすとの研究結果もある。赤ちゃんを抱きあげて、スキンシップで泣きやませることもできる。もともと皮膚は、外胚葉由来で神経とつながっているので、皮膚の感触で落ちつくのであろう。ここで重要なことは、母親の左胸に赤ちゃんを抱くことである。というのは、母親の心臓の鼓動が直接乳児に伝わることによって、胎生期の記憶が呼び覚まされて、赤ちゃんが安心感を感じるからである。母親の「ゆらぎ」のある心音の録音テープを聴かせると泣きやむことはよく知られている。最も注目すべきは、赤ちゃんをあやすときは、抱きあげてリズミカルに揺すったりすることが日常自然に行われていることだ。英国の研究者が揺らし方と効果について特別の振動装置を使って行った研究がある。彼らが対象にした乳児は、揺れの幅が7 cm,1分間に60回揺らすのが最も効果があったという。母親は無意識のうちにこれを実践しているという。ゆらぎと安らぎに関する本能と遺伝とでも言えようか。

 私たちの心にも「ゆらぎ」がある。なんと人の心の移り気なども「ゆらぎ」に関係しているそうなのである!?恋人に心を奪われたら、一緒に居たいと思う。これは緊張感もあるが「やすらぎ」をも感じたいからではないだろうか。恋人の言動がある程度予想どおりであったり、時々可愛らしい仕草やおしゃれな言葉を再発見または新発見することで、さらに心地よさを感じるのである。やはり、規則性と意外性の適度な組み合わせが良いのだろうか?

 歌人の与謝野晶子が「海恋し、潮の遠鳴り、数えては、少女(おとめ)となりし、父母(ちちはは)の家」と詠んでいる。海岸から少し離れたところに生家があり、子どもの頃から海の音を聞きながら成長して乙女になったという情景が眼に浮かぶ。静寂の夜、子守歌のように、遠くから伝わってくる打ち寄せる波の音を聴きながら、ゆらぎのリズムが心地よい夢の世界へと導いたのだろうか。そもそも,海はが合わさった漢字であり,生命の源泉である.生物は進化してヒトとなり,人間は0.9%食塩水の体液成分を持ち、母の胎内の羊水の中で育ち生まれてきている。従って、母親や乳房の訳であるMamaMammaの語源は、フランス語で「海」を意味するLa Merに由来しているのである。だから、私たちは、水やせせらぎの音を聞くと何かしら懐かしい気分になる。おそらく、古皮質の脳には、水や波の音を聴くと、太古の昔を思い出すように、私たちの身体の中の遺伝子にインプットされているのであろう。

 さて、先日、「理性のゆらぎ」という、医学とサイババの世界を研究した興味深い本を見つけた。その中の一節を紹介しよう・・・あらゆる科学は最終的には「近似」である。量子の世界には「不確定性」と表現される原理的に避けがたい「ゆらぎ」が存在し、マクロの世界には相対論的な「ゆがみ」が存在する。それ以外にも、理論の一つ一つ、技術の一歩一歩に近似が登場する。その「ゆらぎ」や「ゆがみ」は、おそらく存在の深いレベルに由来している。それは、粒子や波動のゆらぎではなく、理性のゆらぎ、人間の理性そのもののゆらぎなのである・・。

資料1)与謝野晶子。歌集「恋衣」明治38年 2)青山圭秀。「理性のゆらぎ:科学と知識のさらなる内側」、三五館(株)発行。

 

 ベートーベンとワイン

 1995年の暮れもおし迫り、日本全国では、ベートーベンの第九交響曲「合唱」の演奏会が多く行われている。この暮れの「第九」現象は、本邦だけにみられるが、なぜだろう?その答に「第九忠臣蔵説」というのがある。どこの公演でも満員となり、商売としては間違いなく儲かるので、わかっちゃいるけどやめられない。そもそも、歴史的には終戦直後に、なんとか越年資金をという楽員たちの切実な願いからスタートしたものだが、これに、ベートーベン最後の交響曲という特別な意義を感じる日本人の心情が加わった。さらに、経済的繁栄と生活のゆとりから音楽を楽しむ人が多くなるなど、これらが絡み合って、今日の盛況となったとも言われている。

 さて、本邦における「第九」の初演は、いつどこで行われたか、ご存じだろうか?実は、大正時代に、徳島県の板東という地でドイツ人たちにより初演されたのである。その当時の歴史をひもといてみよう。第1次世界大戦が始まると日本も参戦し、ドイツの租借地だった中国の山東(シャントン)半島にある青島(チンタオ)を攻撃した。敗れたドイツ兵士約5,000人が捕虜となり、日本各地の収容所に俘虜として送られ、約1,000人が1917から28カ月を板東俘虜収容所で過ごした。松江豊寿氏が所長を務めたが、彼は戊辰戦争で官軍に敗れた会津藩士の子であり、敗者の気持ちを理解する包容力のある人であった。「ドイツ兵も国のために戦ったのだから」というのが口癖で、ドイツ兵の健全で快適な生活に配慮したのである。なお、彼と俘虜の友愛の物語が1994年に直木賞を受賞したので参考にするとよい。

 収容された俘虜たちは、松江所長や所員たちのヒューマニズムあふれる管理方針により人道的な処遇をうけ、自主的で自由な生活を送ることができ、板東俘虜収容所は「模範収容所」として世界的に注目されていた。ここでは、既製の建物以外に俘虜たちによって様々な施設が作られた。ボウリング場のある商店街や、山の中腹に建てられた多くの別荘をはじめ、レストラン、印刷所、温泉浴場、化学実験室、図書館、音楽堂、植物園、菜園など、さながらドイツ人の町が、この地方に出現したようだった。

 また、驚いたことに、日本で最初の健康保健組合が作られていたことがわかった。収容所のすべての編成部隊からの代表者が集まり、数日で計画がまとめられ、1917420日に収容所健康保健組合が設立された。その基本理念は、資力を持たず、援助を必要とする収容所の病人すべてに、日本側から提供されない適切な病人食、栄養剤およびその他の補助手段という形で援助と負担軽減をすること、彼らの運命を和らげその回復を速くするために、あらゆる方法で病気の戦友達の力となること、であった。同年420日から1231日には、毎月平均20名の患者の給食を行い、2名お重症疾病者を転院させた。7月には2つの薬局を開き、8月から12月に4594回の治療を行った。その内訳は包帯処置1538回、その他の怪我873回、頭痛、風邪に856回、下痢に267回少量の薬剤が交付され、栄養剤92本が渡されている。1917年には収容所内の健康状態は恵まれ、伝染病もなかったが、191811月にはスペイン風邪が流行し、俘虜の70%が罹病。3名がインフルエンザに起因する肺炎で死亡し、徳島陸軍病院で中瀬、三島、桜井軍医が組合と協力して診療したことや、各年度の決算などが収容所新聞「バラッケ」に詳細に記されている。

 浮虜たちは、地域の人々から「ドイツさん」と親しみをこめて呼ばれ、隣人として地域社会と豊かな交流があった。牧畜、製菓、製パン、西洋野菜栽培、建築、スポーツなど当時の進んだ技術や文化を伝えて指導した。また、演劇、スポーツ、講演会など多彩な活動を行い、19183月の「板東俘虜制作品展覧会」には、近郊の町村などから延べ5万人が訪れ、前代未聞の人で賑わったという。特に、音楽面では、複数のオーケストラや楽団、合唱団が定期的にコンサートを開き、様々な曲を演奏した。そのような中で、191861日に「第九」が日本で初めて全曲演奏されたのである。

 このうわさを聞いて、東京からわざわざ徳島まで第九を聴きにきた人がいる。紀州徳川家の十六代目の当主徳川頼貞(1892-1954)である。彼はのちにわが国における「第九交響曲」演奏のパトロン的役割を果たした。彼が書いた「會庭楽話」の中の「第九見聞記」の一節には、俘虜たちが腕によりをかけた見事な料理を楽しみ・・ハイドンの「驚愕交響曲」と「第九」を聴き・・・音楽家でもない多くの素人達の真摯な態度に敬意を表し、彼らの教養とドイツの文化に羨ましさを感ぜずにはいられなかった・・・、と記されている。

 彼らは何を求めて、この困難な大曲を演奏したのだろうか?確かに、収容所の生活は自由で模範的であったというが、いつ開放されるともわからない捕らわれの身では、家族や恋人、故郷を思う限りない望郷の念と、自由への願望があっただろう。ベートーベンの生涯は第九ならぬ「大苦」の連続であった。運命にうちひしがれる弱い立場の人間が苦闘を重ね、遂には勝利をかち得るのを身を持って範を示し、魂を鼓舞し、勇気を与えた。「第九」の1・2楽章では、激しい闘いや苦しみを打ち破り、堂々と前進するなど人生の高揚期を思わせる。そして、楽しかった「あの頃」を思いださせるようなゆったりした美しい第3楽章。さらに、第4楽章のやがてくる輝かしい飛翔への歓喜の大合唱。当時俘虜たちの平均年齢は29.9歳。若い彼らは、合唱の中で収容所の生活を一日も早く終わりたいとする解放の叫びとして、力いっぱい繰り返し歌ったのではないだろうか?

 1920年にはほとんどの俘虜が祖国に帰り、収容所はその後軍隊の演習用兵舎や第二次世界大戦後は大陸や南方からの引揚者用の住宅となった。ある日、ここに住んでいた高橋春江という一主婦が、薪取りにいく途中、草むらの中に一基の見なれぬ墓を発見した。これは11名のドイツ兵士の墓であった。抑留、引揚げの苦労や戦争の悲惨さを体験していた彼女は、それと知って、以来十余年香華を絶やさず守りつづけたという。この善行は駐日ドイツ大使を通じて本国へ伝えられた。その後、本国からの手紙がきっかけとなって両国の友好が復活し、1972年には収容所があった近くに鳴門市ドイツ館が建設され、1974年にはドイツ連邦協和国のリューネブルク市との姉妹都市の盟約が結ばれた。さらに、1982年には鳴門市文化会館の柿(こけら)落としの公演として、市民手作りの「第九」の演奏会が盛大に開催された。この演奏会は「第九」初演の地における64年ぶりの快挙として、全国に大きく取り上げられた。それ以来、毎年6月には「第九」の演奏会が続けられている。「第九」を一緒に歌いたい方は、ドイツ館に問い合わせてみるとよいだろう。

 ドイツ館には、多くの写真や遺品などが納められており、第九の初演のプログラムもある。すこし色あせているが、当時の高い印刷技術によるものらしく、かなり手のこんだ謄写印刷(多色刷り)で作られている。表紙にはベートーベン像とリボン付きの大きな月桂樹の環が描かれ、裏表紙には、演奏は徳島オーケストラで、80人の男性合唱団、指揮者、独唱者の名前が書かれてある。1階のロビーの片隅にはドイツのいろんな名産が置かれているが、ふと見るとワインのラベルにベートーベンがいる(下図)。このワインはドイツのケーヴェリッヒ醸造所で作られているのだが、なんと、ここはベートーベンの母親マリアの生家なのである!当時、彼はこのワインを飲みながら、「第九」を作曲したと伝えられている。それでは、由緒あるワインに乾杯!

参考文献 

1) 鈴木淑弘. 第九と日本人. 春秋社.

2) 戦争が行われている場所で捕らわれた場合を捕虜、敵の本国に送られた場合を俘虜と呼ぶ。

3) 林 啓介,. 板東ドイツ人捕虜物語. 海鳴社.

4) 林 啓介, 「第九」の里ドイツ村, 井上書房. Tel 0886-72-1133, 著者Tel 0886-89-1253.

5) 富田弘, 板東俘虜収容所, 法政大学出版局.

6) 中村彰彦. 「二つの山河」, 文芸春秋.

7) 鳴門市ドイツ館 〒779-02 鳴門市大麻町檜字東山田55-2. Tel 0886-89-0099,FAX 89-0909.

8) 入手先: ESPOAマルキチ, Tel.0886-52-6856.

 

 ホルモン天使の声

 男性のみならず女性にも人気のニューハーフの店を、夜の歓楽街に訪ねた。怪しげな照明の中で、これまた怪しげなルックスの美女?たちが 歩し歌や踊りを繰り広げる。艶っぽいものからコミカルなものまで、声こそ低音で男性の名残を感じさせるが、彼らの熱演ぶりに強烈なプロ意識を感じた。彼らは、みな美しく、身体が丸みを帯びて太めの人もいるが、中にはわざわざ外国まで行って整形した人もいる。

 そういった彼らを、専門のホルモン学的立場から3つのカテゴリーに分類すると、1)特別な手術など何もしない場合、2)睾丸(玉)を抜く手術を行う場合、3)玉だけでなく、サオまで取る手術をする場合・・。玉抜きは男性ホルモンが出なくなるため、体つきが丸く女性らしく変わってくるが、サオ取りの場合は感染しやすく、医療技術が未発達な昔では生命にかかわるような危険な手術だったことを考えると、いかに近代医学が発達していようとも、日本以外で手術を受けるその勇気には、並々ならぬものを感じた。

 去勢は、ニューハーフになるためだけのものではないことは、音楽家たちの間では有名である。ソプラノの美声を保つために去勢することは近世のヨーロッパでは当たり前のように行われていたようだ。18世紀に活躍したソプラノ歌手カルロ・ファリネッリを主人公に描いた映画「カストラート」は、兄に去勢されたために、人並みはずれた3オクターブ半の音域を与えられ、兄が作曲した歌で名声を勝ち得た兄弟の罪悪感と栄光を縦糸に、天才作曲家ヘンデルとの確執を横糸に、波乱に満ちたカルロの生涯を描いた秀作である。映画での彼の声は、カウンターテナーと女性ソプラノの二人の声をコンピューターを駆使し3,000箇所も細かく合成したもので、私は、その最新鋭の現代技術が作り上げた歌声に体が震えるような感動を覚えた。それほど「去勢された男性・カストラート」の声は魅力的であり、素晴らしかったのだ。

 去勢の起源は、古代メソポタミアで牛馬をおとなしくさせるために行われており、紀元前には、アッシリアの女王が男性奴隷を去勢したとの記録が残されている。これが中国に伝わり、宮廷の宦官となり、アラブ世界では、ハーレムの女性たちの番人となったのである。男性としての機能を奪われた彼らは、不幸の中から、次第に女性の声が出せることが注目され、教会の合唱団という舞台に向かう。当時は、女性が教会で歌うことは禁じられており、高音域のパートとしてボーイ・ソプラノがまず誕生した。しかし、子どもは声量が小さく、次に大人の男が裏声で歌う「ファルセット歌手」が登場。この後、16世紀末にはカストラートが一世を風 し、「天使の声」と賞賛された彼らの歌声が貴婦人を熱狂・失神させたのである。

 しかし、カストラート登場の背景は、決して陽の当たるものではなかった。当時のイタリアは、人口の急増が大きな問題であった。そこで、貧しい父親はわが子を修道院に送り込まなければならなかったが、文学やオペラの題材になっているように、修道士や修道女の大量生産は多くの悲劇を生んだ。男としての一生を台なしにしてまで、去勢などという物騒なことをわが子に施したのは、教会の合唱団員として一生安定した生活を送れ、もしオペラ歌手として成功すれば王様のお抱えにもなれるからである。「カストラート」は、こんないちるの望みを去勢という非道の行為に託した父親のわが子に対する愛情の現れだった。ジャンジャック・ルソーは、「イタリアには野蛮な父親がおり、財産のために情けを犠牲にして、子供たちにこの手術を受けさせている」と厳しく指弾している。が、実際は、その子が音楽好きか、音楽的才能はどうか、などを吟味してから去勢を施したので、多くの場合、子供自らも同意して手術を受けていたようだ。もっとも、小さな子供が同意したからといって、インフォームドコンセントがきっちりと取れていたとは判断できないし、行為の是非については当時の社会情勢などを十分に考えなければ結論を出すことはできない。

 さて、手術はうまくできたのだろうか?イタリアは外科の先進国で、ボローニャ大学には、何と、1250年に世界最古の医学部が創設されたほどである。当時、英仏独では、外科医は床屋が兼務していた。床屋の赤、青、白のマークは、動脈、静脈、神経を表していることはよく知られているとおりだ。一方、14世紀のイタリアでは、ルネッサンス思想のもとで、人体解剖や外科手術が多く行われ、すでに外科医はプロの医者として専門分化し、ボローニャ大学のある外科医の去勢の技術が注目されていたという。その方法としては、1)まず、生殖器を柔らかくするために、子供をミルクの風呂に入れる、2)麻薬のアヘンを使って麻酔をする、3)麻酔がない場合、頚動脈を圧迫し、子供が昏睡に陥ったところで手術をする、4)鼡径部を切開し、そこから精索と睾丸を引き出すー、などの手術が行われていたようだ。

 彼らは、8-12歳頃に手術を受けてから、音楽学校に入った。カストラート教育は、特にナポリの4大音楽院で行われ、パトロンがついたり学費免除など多くの特典があり、一般教育も十分だったようだ。例えば、ロッシーニのオペラ「セビリアの理髪師」にも登場する名カストラート・カッファレッリの当時の日課を見てみよう。午前中は、難しい歌唱パッセージの練習、国語、鏡の前で歌唱・演技の練習を各1時間。午後は、音楽理論、対位法の五線紙上での練習と実習、即興の練習、国語、ほかにはハープシコードの練習や賛美歌の作曲などもあった。15-20歳頃までこういった一貫した英才教育を受けて卒業し、その後各地で活躍したとされる。

 こういったエリートたちの果ては・・。去勢された男性ならだれもが突き当たる壁だ。ラブシーンを考えるとよく分かる。生殖の不能はあっても、性交の不能はない。子種もないから女性には人気がある。金持ちのツバメとなって稼いだカストラートもいたという。しかし、ある年齢になり、結婚して子供を作って平和な家庭を持ちたいという平凡な願いが叶えられないことを知る。通常の人生が送れない。自分の存在意義を求めた彼らは、自己を舞台で表現し、歌唱の技術について究極の技を研究するようになった。その結果、カストラートが完成させたベル・カント唱法は、現在に至るまで発声法の基本となっている。また、よく知られているソルフェージュは、そもそもカストラート用の教科書として編集され、その後世界中に広まったものだ。モーツァルトが幼少の頃、父に連れられて著名なカストラートから歌唱法を学んだという記録もあり、モーツァルトをはじめ多くの音楽家が、カストラートの声をイメージしながら、オペラを作曲したのだ。すなわち、カストラートがいたからこそ、現在の歌唱技術が完成され、音楽の歴史が作られたと言っても過言ではない。

 この世で最後のカストラートとして知られるのがサンドロ・モレスキー教授(1858-1922)である。彼はカストラートとして唯一、録音をした人で、私はYale大学図書館に残されているその声を聴いたが、男性、女性、子供の三位一体からなる声で、崇高で官能的な強烈な印象を感じたことを記憶している。最近、カストラートに関する書籍やCD、LDがリリースされたので、ぜひ、皆様にお薦めしたい。

 ニューハーフにカストラート、究極の美は女性と子供にありということだろうか?確かに3種類のニューハーフや歌舞伎のおやまは魅力的だ。これに最近は見ただけでは男か女か判断できない若者がいる。どこからどう見ても男にしか見えない私は、中性の美に複雑な思いを感じる。はたして、彼らが患者として訪れた場合、オトコの私はオトコとして彼らに向かうことができるだろうか?

参考資料

1)映画「カストラート」(ユーロスペース配給)1995.

2)去勢はcastration, カストラートはcastrato(), castrati()

3)Alessandro Moreschi: The Last Castrato. OPAL CD 9823, Pavilion Records,1987.

4)パトリック・バルビエ著、野村正人訳.カストラートの歴史.筑摩書房,1995.

5)アンドレ・コルビオ著、斎藤敦子訳 カストラート 新潮社,1995.

6)アンガス・ヘリオット著、美山良夫監訳 カストラートの世界 国書刊行会 1995.

7)今野裕一編、ウルNo.10、カストラート/カウンターテナー、ペヨトル工房 1995.

8)CD盤.「カストラートの時代」 EMI, TOCE-8693,1995.

9)LD盤.コヴァルスキーが語る<カストラートの世界>BVLC-36,BMG Victor,Tokyo,1995.

 

 ユーミンと脳細胞

 認定内科専門医会の四国支部世話人代表である板東 浩先生が、なんと平成5年12月に全四国音楽コンクールピアノ部門一般・大学の部で最優秀賞を受賞されました。音楽学校の大学院生を相手にこの快挙はとても医者とは思えません。彼にこのような才能があるとは誰も信じないでしょうが本当の話です。その後、彼は音楽活動を行いながら、内科専門医会雑誌に「医学と音楽」のエッセイを書き続け、今回から3年目に入ります。内分泌・代謝学を専門とする医師で、もしかしたら天才ピアニストかもしれない()板東先生の今後の連載を引き続き楽しみにしてください(小林祥泰)。

 ドアをあけると、そこは別世界だった。エキゾチックな香りと薄い霧に包まれた会場。プロローグから異次元空間への期待が高まる。短い間隔のストロボ、内臓を揺り動かすベースの音、きらめく原色のレーザー光線。心臓の鼓動が高鳴り,身体の中から魂が、大きなパワーで引き抜かれてしまいそうになる・・・。

 私たちの心を操る人、それはユーミンこと松任谷由美である。荒井由美の時代から、Yumingの音楽はずっと私たちの心を捉えて離さない。それは一体なぜだろうか?

 第一に、彼女のレトリック(詩)には、他の歌手にはない魅力がある。窓から見える何気ない光景。ある一コマをモチーフに、恋心や恋への不安などを絵画的な眼で表現した輝きがある。だから彼女の歌を聴くうちに、その光景がお仕着せでなく、自然に鮮やかに脳裏に浮かび上がってくるのだ。ユーミンは、美大で日本画を専攻したという。この経験が、日の光や水の影というどこにでもある情景に命を吹き込むのだろう。

   雨音に気づいて 遅く起きた朝はまだベッドの中で 半分眠りたい  ストーブをつけたら曇ったガラス窓  手の平をこするとぼんやり冬景色

 これは「十二月の雨」という彼女の初期の作品である。この詩から湧き出るイメージは十人十色であるが、聴く人みんなの心に染み込むのは、それが単なる一風景ではなく、心象風景に歌いあげられているからではないだろうか?

第二には、彼女が人に対する鋭い洞察力や優しい愛を持っているからだ。ユーミンはラジオのパーソナリティーとして、多くの人々の相談に応じ、慰めたり勇気づけたりもしている。この豊かな感性が、彼女の歌を心の中に印象づけ、いつまでも心地よい記憶として残してしまうのだ。第三には、きらびやかなライティングと身体の芯まで揺り動かす音響にある。最新のコンピュータ技術を駆使した華やかなステージには、曲にマッチした映像が映しだされる。

 今回のテーマは「カトマンズ」。心の中の街への旅。ユーミンの歌を聴いているとこんなフレーズが浮かぶ。彼女にとって、旅はそこへ行くことが目的ではなく、地図では表せない街への旅。言い換えれば「時空間のゆがみへの旅」である。クラシックバレーやヘビメタなど、あらゆる時代やジャンルを越えて取り入れることが、その旅への不可欠なアイテムとなってくる。その結果、彼女のステージは、五感すべてを刺激し独特のユーミンワールドに私たちをいざなってくれる。

 さて、音楽と映像は互いに影響しあって、我々の心を支配する。美しい風景を映画でみる場合、BGMの存在こそが、より強く印象づけるのだ。ユーミンのコンサートでは、musicだけでなく、back ground illuminationが次々と映しだされて、我々を一層ユーミンの虜にしてしまう。このことは、最近注目されている乳幼児の能力開発教育法に結びついてるように思う。様々な図や文字を描いたカードをたくさん用意して、1秒間に数枚という高速度で見せ、頭脳を訓練させるものだ。

 我々の脳に入力される情報の9割は視覚からだといわれている。さらに、近年の研究で、様々な形や色の映像の信号が視野領域に送られると、刺激される脳の場所がそれぞれ異なると報告されている。また、人の顔や姿の違いによっても特定の脳細胞の電気活動がみられるという。これは、免疫学で、先差万別な抗原に対して抗体をかつて作ったことがあれば記憶しているように、一度でも見たものは、すべてそれぞれ異なる脳細胞にインプットされているのかもしれない。

 ところで、芸術と脳発達の関係がScience誌に発表された。MRIを用いて脳を調べると、絶対音感を持つ人は、脳の左側の側頭葉後部が右側より大きいことが明らかになったのである。著者のSchlaugは、医学部入学前はオルガン奏者であったが、残念ながら絶対音感はなく、「絶対音感はgiftで本当のtalentである」と述べていた。彼の悔しくもまた憧れであった絶対音感への想いが、この研究を成就させたのであろうか。絶対音感とは、調律笛の助けを借りずに楽音の高さを正確に言い当てたり、様々な音の音程がわかることである。私事で恐縮だが,私は物心がついた時から不思議と絶対音感が身についていて,汽笛やパトカーのサイレンの微妙な音程が分かった。ある音楽家がコップが落ちて割れる音を聴いて、「これは○○の和音だ」と指摘したという話を聞いたことがある。そこまでになると、天才と何とかは紙一重という気がするのだが・・。

 一方 、別の報告では、ある音楽の旋律を初めて聴いた時は、左でなく右脳が刺激されるという。この2つの説は相反するようだが、そうではない。従来、言葉の中枢は左側頭葉にあり、音楽や作曲に関する中枢は右側頭葉にあることが知られている。現時点での研究成果をまとめると、

1)音楽的活動の内容は千差万別で、あるものは右脳で、あるものは左脳で情報処理されている

2)絶対音感の責任領域は左にあるようだが、この機能には言語と音楽の両者の能力が必要である

3)言語活動よりはるかに高次の機能と考えられる音楽活動が行えるためには、右脳と左脳の複雑なネットワークがうまく働く必要がある、

などと推測されている。

 ユーミンはピアノで弾き語りをする。弾き語りとは、大脳で詩や旋律、伴奏を考えながら同時に、舌と唇を使って声を出して歌い、指でピアノの鍵盤を弾くという動作である。ご承知の通り、人間は動物から進化してきたものだが、人間の特質は言葉を話し、手を使うということである。大脳の面積の多くは、顔や舌、唇の知覚と運動に関与しており、手と指の運動には大脳の30-60%が使われているという。すなわち、弾き語りができるためには、脳細胞のほとんどを賦活して協調した情報処理機構が必要であるのだ。

 ところで、ユーミンの曲がEnglish versionFrench versionでリリースされているのを、ご存知だろうか。私が大好きな「卒業写真」では、悲しいことがあると・・ が、When I down, feeling sad,・・・と訳されている。英語の歌詞が別の脳細胞を刺激するのか、異なるイメージが心に広がる。

 ユーミンの人と音楽は、中学生から中年の男女に至るまで多くの人々に受け入れられ、ファンを数十年魅了し続けている。近年、NHKの朝の連続テレビ小説「春よ、来い」の主題歌も手がけ、今や、ユーミンは国民的シンガーソングライターでもある。彼女のニューミュージックは、演歌でも浪速節でもないが、不思議と我々日本人の心の琴線に触れ、心が和む。これほど幅広い年齢層から受け入れられ、長年にわたり継続的に信頼されている姿は、私たち医師が目指すべき姿なのかもしれない。

 ユーミンの最新アルバムに「織姫」がある。「コムラサキなら七月の 暮れたばかりの空の色」と始まるその歌は、私に懐かしさと安らぎを想い出させてくれる。あれは浴衣の行列が、山の小径を見え隠れ蛍のような提灯を星へと運んでいく。コンサートのエンディングで、着物姿のユーミンが、妖艶に舞いながら歌い綴る姿が瞼に甦り、私の気持ちはゆっくりと揺らぐ・・・。

参考資料

1) Schlaug G et al.Science 267:699,1995.

2) Zatorre RJ et al.J Neurosci.14:1908,1994.

3) 林 博史.頭のリズム・体のリズム.ごま書房,1995.

4) CD盤. Graduation/A.S.A.P.(As Soon As Possible), COCA-12161,1994.

5) CD盤. Yumi Matsutoya. KATHMANDU, TOCT 9300, 1995.

 

 月の光とアンコール

 嵐のような拍手とカーテンコールに、出演した俳優がステージに並ぶ。最前列では、背中に天使の羽がついた白いタキシード姿で、7人の男性が微笑みながら、深々と敬礼。彼らの手では、トランペット、トロンボーン、サックス、クラリネットなどの楽器が、嬉しそうにキラキラと輝いている。

これは、先日見た、演劇「ムーンライト ー夏の夜の不思議な夢の物語ー」のアンコールの場面。演じる劇団は「遊機械/全自動シアター」で、以前にはシェイクスピアの「真夏の夜の夢」を上演したこともある。「人生は一夜の夢のようなもの。一幕ものの芝居の如し」というシェイクスピアの精神を受け継ぎながら、3世代の恋愛狂騒曲に仕立てなおして、リメイクしたのが今回の作品だ。

 この舞台は普通と違う。通常、演劇のBGMを担当する演奏家は、ステージの手前の光があたらないボックスで演奏している。いわゆる黒子だ。今回の芝居では、ミュージシャンは、舞台の上で生演奏をしながら、俳優としても重要な役を演じているのである。役者の心の微妙な揺れを、トランペットの単旋律のみで表現。トロンボーンではおどけた雰囲気、サックスでは情熱的な気持ちを増幅し、役者の演技を引き立てる。一貫して流れるミュージックは、1920-40年代の古くも良き時代のジャズ。名曲の Blue Moonでは、And when I looked, the moon had turned to gold! Blue moon! Now I'm no longer alone, Without a dream in my heart と、耳に心地よい。

 Blue moon以外に、月に関連ある曲には、ベートーベンの「月光」、ドビッシーの「月の光」、グレン・ミラーの「ムーンライトセレナーデ」などがある。彼らは、月からいろんなインスピレーションを受けて、湧きあがってくる情感を曲に託したのであろう。人間は、昔から、満月の光をあびると、変身(心)するようだ。満月の夜には、狼男に変身したり、人が狂ったりする。月はラテン語でlunaといい、英語でlunaticは「月の」と「狂気の」を意味する。古代ローマの医者は、周期的に精神に異常をきたす病気のことをlunacyと呼んでいた。旧ソ連のルナ3号は1959年に月の裏側の写真撮影に成功し、米国の月面探査機ルナ・オービターは1966-68年に送った数千枚の月面写真のおかげで、1969年アポロ11号による人類初の月面着陸がなされたのである。はたして、満月の夜には、器機類はうまく作動したのだろうか?

 今回の演劇では、月の光を浴びて、冷めきった老夫婦が突然熱く燃え上がったり、何だかわけもなく人のことを好きになったり、嫌いになったりし、月の魔力が存分に発揮されている。1987度アカデミー賞主要3部門を受賞した映画「月の輝く夜に」では、あろうはずもない恋が芽生えてしまう。また、大森一樹監督の「満月」では、満月の夜に、津軽藩の武士が江戸時代から現代にタイムスリップし、医学生と恋のライバルになったりするなど、月には何かのパワーがあるのだろうか、と思わせるほど、月の魔力を題材にした作品は多い。

 この宇宙は150億年前にビッグバンで誕生した。スーパーコンピューターを駆使したgiant impact(巨大衝突)(1984)によると、火星サイズの天体が約時速10万キロメートルで地球と衝突し、溶けたマグマとなった岩石が宇宙空間へ飛び散り、数万ー数千万年かかって再び集まって合体した。その結果、45億年前に月が誕生したという。月は1年に3cm地球から遠くなっており、月が誕生した時は、今よりも15kmも近かった。地球からみた月は、手を一杯に伸ばした時に5円玉の穴に入る大きさで、太陽も同じである。なぜなら、月より400倍遠い太陽は、月の400倍の大きさをもっているからである。新人類という奇妙な生き物が20万年前に出現してきた時期に、たまたま、太陽と月の見かけの大きさが一緒になるとは、不思議なタイミングだ。これは、宇宙や天体、引力などの法則により、必然か偶然かはわからない。しかし、逆に、様々な環境や条件がそろったからこそ、ホモ・サピエンスが出現できたのだろう。地球の歴史を24時間の長さに縮めると、この惑星をわがもの顔で徘徊している我々は、実は、わずか2秒という誕生したばかりの新参者なのである。

 月の引力は強く、硬い地球の表面も引っ張っており、1220cmも上下させているという。また、月の引力は、潮の満ち引きも起こしており、満月や新月の時には、太陽の引力の相乗効果で、大潮となる。アマゾンや中国でみられる「ポロロッカ」という、川の水の逆流のショーをテレビで見た人も多いだろう。満月や新月のときには、植物や動物にも行動に変化が来ることがわかっている。ヒマワリやマメは満月や新月の時に元気になり、水を吸い上げる量が増える。「ウニの卵巣は満月のころに大きくなる」(アリストテレス)とあるように、7-9月の満月の夜に、紅海沿岸のウニは産卵して受精する。また、ミミズに似た生き物の釣りのえさ、ゴカイは、12月の新月から二晩の間の満潮時の、その二時間にかぎって繁殖をするという。

 地球上の生命は海に誕生し、単細胞生物から多細胞生物に進化するときに、細胞内に海水を閉じこめたのである。そして、月の引力を感知できる能力も、約4億年のあいだ遺伝し、人間にも受け継がれてきているのである。

 月が女性の月経に関わっていることは、よく知られている。1万例の月経の周期を分析すると、満月と新月の日には、月経中のヒトが10%以上も増えていた。また、1957年のメナカーの研究で、人間の生殖は月齢と関係があり、月経周期の平均は、月齢サイクルとまったく同じ長さの29.5日であったことがわかった。全国の助産婦が取り上げた分娩のデータを分析すると、確かに、満月と新月に多く、さらに、引力の変化率と蓄積効果を重ね合わせたグラフは、出産データと一致したという。さらに25万例の出産記録では、平均妊娠期間が月齢の9カ月、つまり265.8日であることもつきとめた。

 精神医学で有名なユングの弟子であるハーディングは、「月の神秘と女性原理」を著した。古代信仰から現代芸術に至るまで、女性と月との間には、密接なつながりがみられ、狼男伝説にみられる異常な攻撃性や凶暴性は満月の影響によるものだという。残虐な犯罪も、満月と新月の日に関係しているともいわれている。

 このように見てみると、月の引力は、我々の潜在意識下にある欲望を引っ張り出すのであろうか、とも思えてくる。月の光をみると、かつて磁力や月の引力を感じる事ができた時代のヒトの本能を呼び覚ますために、心が翻弄されるのかもしれない。だから、昔から、「月の光には魔力が潜んでいる」、「月が地上を愛に染めた時ーー男と女は恋におちる」、「月は女に恋の魔法をかける」、などと伝えられているのであろう。

 話は変わって、最近、テレビ番組の名探偵「コナン」に人気がある。小説家コナン・ドイルの生みだしたシャーロック・ホームズに、勝るとも劣らない有名な名探偵の高校生が、ある事件に巻き込まれた。死体から毒が検出されず、完全犯罪が可能とされる新しく開発された薬を飲まされてしまい、身体が小さくなってしまう。そこから、名探偵「コナン」の闘いが始まるのだ。

 先日、ピアノソナタ「月光」殺人事件が放映された。満月の夜に、古いピアノから「月光」が奏でられ、殺人事件が起こる。ベートーベンの「月光」の楽譜にメッセージが隠されており、この暗号を解読する。手に汗握るサスペンスで、コナンが犯人の医師を追いつめる手法は、誠に見事であった。

 さて、夏の夜には、「月光浴」がよい。心身の健康にヨーガは有名であるが、元来、ヨーガはハタ・ヨーガとも呼ばれ、ハは「月」、タは「太陽」を表す。ハタ・ヨーガの修行のひとつに「月の礼拝」があり、満月の4日前から、月に向かって礼拝をする。これに加えて、月の光を全身で浴びて深く息をする「月光浴」を一緒に行えば、身も心もやすらぎ、何ともいえない心地よさに包まれるという。

 Blue Moonの光の下で、粋なブルースを奏でるトランペットの音色を聴くと、深い記憶の底から、超能力が呼びもどされて、スポットライトを浴びるかもしれない。もしかしたら、舞台だけでなく、現生の世界もすべて夢なのであろうか?

参考資料

1)池田寛と日本楽友会オールドボーイズ

2)高泉淳子. Story and Cast

3)Words by Lorenz Hart, Music by Richard Rodgers, Copyright 1934.

4)「月の輝く夜に」Moonstruck. ノーマン・ジュイソン監督.Herald.1987.

5)大森一樹監督.「満月」.松竹()配給.1991.

6)エスター・ハーディング著/樋口和彦・武田憲道訳. 女性の神秘(月の神秘と女性原理),創元社,1985.

7)青山剛昌. 名探偵「コナン」, Detective CONAN vol.7, 小学館,1995.

 

 孔子と琴の音

 有朋自遠方来、不亦楽乎

闕里賓舎ホテルの玄関に掲げられているこの言葉は、旅人の疲れた心と身体を温かくもてなしてくれる。西の空が夕陽で紅色に染まる頃、私たちはようやく、中国山東(サントン)省曲阜(キョクフ)市のこのホテルに到着した。夜には、正統山東料理で2500年の伝統を誇る「孔府菜(コンフーツアイ)」に舌つづみを打ちながら歓談。そのあと、ホテル2階の音楽茶座で古楽舞のショ-が始まるというので一番前に陣取った。まず、「編声」という、金属で作られた鐘が、いくつも紐で吊された楽器がばちで打たれ、音楽が始まる。続いて、中国の琴や管楽器で、古典中国音楽が奏でられ、それに併せて、頭に冠をつけた麗しい女性が、妖艶な舞踊を披露。最後には、「編鏡」という、石が紐で吊るされた打楽器が打ち鳴らされて、音楽が終わるのである。

 ここ曲阜市は孔子の故郷。孔子(前551-479)は、御存知のように、儒家の祖である。孔子は、現実の人生にいかに処すべきかについて述べ、人間相互の愛情を重んじて道徳政治を説いた。孔子の血は脈々と受け継がれ、曲阜市の人口50万人のうち10万人が孔姓であるという。直系の子孫の一人が孔祥林で、最近、話題作の「孔子家の心」1)を著している。ホテルの横には、孔子をまつる大聖堂で、儒教の総本山である孔子廟がある。漢代以降、儒教が国教となり孔子の地位が高まるにしたがい、歴代皇帝の手厚い庇護と崇敬を受け、規模は次第に大きくなり、総面積は約22m2。翌朝、私たちはすがすがしい空気を一杯に吸い込みながら、数分歩いて孔子廟の南端から入った。そこの門には「金聲玉振」と大きな文字が書かれている。孔子之渭、集大成也者、金聲玉振。その昔、孟子は「孔子の教えはすべてを包括しており、すべてを理解して悟りをひらいた人の言葉は、まさに素晴らしい音楽のように、私たちの心を和ませる」と述べた。「金聲玉振」という言葉は、昨晩の音楽を私に蘇らせた。すなわち、金は鐘で、聲とは宣べること、玉は磬(石製の楽器)で、振とは収(おさめる)。「先ず、鐘を撃ちて、その聲を宣言し、終わりには、特磬を撃ちて、その韻を収めて、楽を一終する。よりて、智徳の大成せるに喩ふ」、のである。金聲が「編声」で、玉振が「編鏡」に当たり、音楽は金聲から始まり玉振で終わるのだ。

 以前にインドネシアのバリを訪れた時、ケチャックダンスやフロッグダンスの最初には、イントロあるいはプレリュードとして「金聲」に相当するような楽器が使われていた。身近なものでは、音楽や演劇が始まる時に合図として鳴らされる「ウィンドチャイム」があり、誰もが、音楽ホールで経験しているだろう。低音から高音へのアルペジオの音色が、キラキラと光輝くガラス玉を散りばめられているような極彩色の世界を、私たちの心の中にイマジネーションさせる。そして、これから始まるコンサートに胸ときめくのだ。これらは、「金聲玉振」を起源としているのではなかろうか?

 さて、孔子が理想の人物として思慕したのは、周の礼楽文化を定め、周王朝の基礎をきずいた名宰相の周公。礼は礼儀、楽は音楽(礼学音楽学)のことで、孔子は礼楽制度を取り入れたのだ。孔子は才能が豊かで、琴の名手としてもよく知られていた。ある人が孔子を訪ねてきた時、孔子は居留守を使って不在であると伝えさせた。そして、素晴らしい琴の音色を奏でて、在宅である旨を来訪者に知らしめたという。人の道を重んじる儒家の祖の孔子でさえ、このようなエピソードがあるのは興味深い。その真意は、私ごとき者には理解はできないが、君子であったからこそ、遠回しに表現したのかもしれない。また、ある時、孔子は、信頼する弟子が病気となった時に見舞いに訪れ、斯人而有斯疾也(このひとにして、このやまひあり)と詠んだ。彼は、その人がその病に罹りしことを深く惜しんだのである。この短い文の中に、孔子の深く大きい情けが感じられる。

 ここで、私は漢学者になったつもりで一句。斯人而有斯音也(このひとにして、このおとあり)。まず、音楽の心得のないものが音を出すと、その音にはゆらぎや減衰がなく、まさに雑音である。これは、神経を逆なでするもので、目覚まし時計のブザーになら使用できる。次に、小手先のテクニックだけしかない音楽では、聞く人の心には染みとおらない。さらに、孔子のような素晴らしい人格者が琴を奏でると、その弦の振動が聴く人の心の琴線を震わせるものなのである。

 ところで、孔子廟の中を進んでいくと、銀杏(杏)(ぎんなん、いちょう)の木が目に入ってくる。伝えられるところによると、杏の木のもとで、孔子が教えを説いていると、そこには道ができたと言われている(荘子)。「杏」という漢字の成り立ちは、「木」の下に丸い実「」がついたもので、これが「杏」になったという。現在、銀杏の木は、東京都の木、東京大学の校章、杏林大学など、知識、学問、医学などのシンボルとして使われている。他方、杏の木は、梨園と呼ばれていて、ここでは芝居や音楽などの演劇が行われていたという。

 孔子廟を北に歩いて、突きあたりが本殿の大成門である。中国の3大宮殿のひとつで、孔子のまわりには、四人の賢者と12人の哲学者が控え、私も孔子にあやかるようにと、手を合わせた。そのすぐ横の建物には、約3000年前の漢の時代の石碑が残されており、いろんな絵が描かれている。万能の薬をつくるために、にゅう鉢で薬をこねている「うさぎ」。神農(医者の先祖の神様)は、山にこもり、数百種類の草を実際に煎じて飲んでみて、薬効を確かめたそうだ。百草を煎じて茶(ツア)として服用し、どれが効果があるかを調査(査ツア)したと言う(中国語の洒落)。

 また、ここに扁鵲(へんじゃく)という興味深い動物がいる。これは医者の先祖として、鶏の身体に人間の頭を持つもので、伝説上の名医なのだ!手には大きな針を持ち、患者の正面に立って、患者の前頭部に鍼灸を行なっている姿。数人の患者が、冠をはずして、治療の順番を待っている。どんなに地位や身分の高い人でも、医者の前では、冠をはずしたいう。

 すぐ横には、魚、猿、人間が順番に画かれており、これは進化を表すものらしい。人間は動物から進化したものという発想が3000年前にすでに考えられていたとは、驚くべきことだ。この概念は、後世になって、「個体発生は、系統発生を繰りかえす」というケッヘルの学説につながってくるのである。孔子家は、五代十国(907-979)の時代に、まさに途絶えかけたことがある。孔子家直系の子供である孔仁玉が殺されそうになったのだ。その時、乳母は機転をきかし、自分の息子の命と引換に孔仁玉を助け大切に育て上げた。彼は19才で科挙に合格し宮廷へ。機会をみて、彼は時の皇帝に直訴し、その後孔子の家系はずっと存続できたのである。この物語は、本邦の歌舞伎で有名な「先代萩(せんだいはぎ)」のあらすじと同様である。

 さて、邦楽の作曲家で世界的に知られている三木稔先生は、徳島県出身である。彼は、「オーケストラ・アジア」を主宰し、「東洋の美」を追求し表現し続けている。「うたよみざる」や「じょうるり」「ベロ出しチョンマ」「ワカヒメ」などが有名だ。「あだ」(An Actor's Revenge)は、歌舞伎の「雪之丞変化」をオペラ化したもので、幼い頃に雪之丞の命を助けた医者が登場する。三木先生の直筆のお手紙を拝見すると、東洋文化に対する先生の真摯な情熱が私の心を打つ。

 今回の視察から、「日本の文化」は「大木の枝の先に咲いた一輪の花」ではないだろうかと私は感じた。枝や葉を長い年月支えてきた幹、そして、幹を支えてきた根。土の中に広く張っているその姿は地上からは見えないが、花が咲くことができたのは、水や養分を小さい枝の先まで運んでくれた根のおかげだ。中国こそが、長い年月をかけて「根」の役割を演じてくれたのであろう。これらのオリエンタルな音楽や文化の起源は、中国であり、また、孔子であるかもしれない。まさに、今回の視察は、私にとって、温故知新であったのである。

参考資料

1) 孔祥林. 孔子家の心, 扶桑社. 1996.

2) 三木稔後援会事務所 徳島市助任本町1-3-1五藤 方 (Tel:0886-54-0823, FAX:53-5182)

3) CD盤. 30CM-4434, 1995.

 

 たまにはラルゴ

 身長180cm180kgという超肥満体の大学教授クランプは、温厚な紳士だが気弱で内気な性格。デブのために動作も鈍く、大学ではドジの日々を送っている。ある時、彼は恋に目覚め、やせようと決意。専門分野の遺伝子生物学で、開発中のDNAを操作するやせ薬を自分自身に実験してみる。これと同時に自身満々で口八丁手八丁のコメディアンに変身し、歌や踊り何でもござれのキャラクターに変身してしまう。これは、1996年に公開された映画「ナッティプロフェッサー・クランプ教授の場合」の1シーン。特殊メイクやハイテク技術が、底抜け教授を演じるエディー・マーフィーを盛り上げ、デブの悲哀と苦悩を見事に描いた超爆笑コメディに仕上げている。

 映画じゃさえないデブも、ことミュージシャンになると事情が違う。先頃、世界的に著名な男性オペラ歌手3人のジョイントコンサートが横浜アリーナで開かれた。巨体を揺すりながらの熱唱はテレビでも放映されたが、彼らの声はすさまじかった。医学的に分析すると、おそらく声帯には程よく脂がのり、うまくビブラートがかかる。さらに、太った身体自体が楽器ででもあるように音を震わせる。もちろん、鍛錬も想像を絶する程のものがあるのだろうが、この体形・デブであることも重要な素質と考えられる。

 肥満には、遺伝と環境が影響している。私は、プライマリ・ケア医学の仕事で、東南アジア諸国を訪れる機会が多い。今までに中国、韓国、香港、台湾、シンガポール、マレーシア、ラオス、タイ、ベトナム、インドネシア、スリランカなどに出かけた。暑い気候、スパイシーな食事、仕事の内容、生活習慣などいろんな因子が考えられるが、いつも感じるのは、街角に肥満の人を見かけないことだ。一方、本邦では、同じアジア人種でありながら、肥満が多い。巷では様々なダイエットが溢れ、ダイエット関係の雑誌も多い。これは食生活が肉食主体の欧米諸国並みになり、明らかに食べ過ぎていることが大きな原因だ。成人病(生活習慣病)の発症も低年齢化の傾向がみられており、国民の将来の健康についてつい危惧をしてしまう。

 他方、肥満の原因に、視床下部にある摂食中枢と満腹中枢のバランスも挙げられる。脳内ホルモンによる影響もあるだろう。近年、肥満(obesity)に関連する遺伝子のOB遺伝子が発見された。近い将来には、肥満のメカニズムがこれまでとは別のアプローチで解明されてくるだろう。

 古くから、身体の形は性格に影響すると言われている。先の映画では、クランプ教授が肥満体の時は優しく気弱な性格。一方、スリムになった時には、自信満々で攻撃的な性格となり、このニ重人格が、彼の心の中で葛藤し、対決する事態となる。肥満の裏には食生活に代表される豊かさが見える。豊かになって、成人病の病巣を身体に抱き、心まで気弱になるのではワリが合わない。日本は戦後五十年以上、世界に類を見ないほどの急速な発展を遂げた。これが、肥満に代表される豊かさの歪みを生んだのは皮肉な話だ。

 経済も人も進化すると、進化に伴う弊害に襲われる。バブル経済とその破綻は経済の進化の歪みとも取れるし、成人病も人の進化の歪みかもしれない。これによく似た話は、はるか昔の地球上に見いだすことができる。皆さんは化石でなじみ深いアンモナイトをご存知じだろうか?約四億年前、地球上に出現し6500万年前の白亜紀末、恐竜の滅亡と前後して地球上から完全に姿を消してしまった。アンモナイトは、とぐろを巻いた蛇が石化したものとであるとの説もあり、蛇石と呼ばれたこともあった。その後、フックの法則で有名なR.フック(1635-1703)らによって、絶滅した生物の遺骸であることが正しく認識されるようになった。アンモナイトの名前は、1789年に見つかった化石の形が古代エジプトの最高の神である太陽神アモンの角に似ていたことが命名の由来だと言われている。本邦では、化石の側面が菊の花に似ていることから、菊石類と呼ばれている。

 アンモナイトは現生のイカやタコと類縁のオウムガイと同様、殻を背負って殻の中に軟体部をおさめ、体液を出し入れして潜水艇のように海中を浮き沈みして生活していたようだ。身体の先端にあるロートから海水を噴出して泳ぐこともできたとされるが、あまりすばやい動きはできなかったらしい。その胃からは、有孔虫や貝形類の殻、海ユリの破片が発見されており、外洋性のアンモナイトは、プランクトンを主要な食物としていたと考えられる。

 身体の大きさは、古生代では径が2-3 cmで中生代では10 cm以上、中生代末には2-6 mのものまであった。進化とともに大型化したことがうかがえる。これとともに、殻の形も変化し、ねじれたり、巻かない棒状やかぎ状になる「異常巻き」が出現、約3億5000万年という長期にわたる進化のドラマの幕を閉じたのである。異常巻アンモナイトの殻は奇怪な形をしたものが多く、絶滅を予告する「遺伝子的消耗」の産物であるとされていた。ある生物が絶滅期に近くなると、異常形態の出現が見られることは生活の特殊化がひどく進んだためと説明されている。

 絶滅の理由のひとつは食性の変化で、生活習慣の多様化や生息圏の拡大と密接な関係がある。次に、大型化し動作が鈍くなったために、他の真頭魚類などの動きの速い補食者たちの餌食になった可能性がある。さらに、身体の構造が複雑化し、外界の環境変化に対する適応能力が失われたため、白亜紀に世界的な規模で起こった海進・海退などが原因で絶滅したと考えられている。

 進化をめぐる学説には、E.ケッヘルの「段階の法則」(1866)やL.ドローの「進化限局の法則」(1893)などがある。前者では、生物群の進化には段階性があり、祖先型多数の種の分化発展・繁栄滅亡へと進む。また後者では、特殊化し過ぎた種族はその子孫を残さずに滅びる、とある。これらの法則は、われわれ人類に対しても当てはまらないだろうか?われわれ新人類は、アンモナイトの1万分の1程度、約5万年の歴史でしかない。しかし、人類はこの間に食生活が変化して体は大きくなる一方で、顎が小さくなり、歯がなくなるなど、既に大きな変化が見られている。今後、学説による死滅までの歴史に刻まれていく人類の変化を思うと、憂うつな気分になってしまう。

 絶滅へ猛スピードで突き進む人類の傍らで、中生代から延々、生き続けている種族もある。爬虫類のカメだ。鶴は千年、亀は万年と言われる長寿の象徴だが、なぜ、そんなに長く生きられるのだろう。動きは遅く、攻撃もしない。硬い甲羅の中に、手足を、頭を引っ込めて頑強に身を守る。これらが理由だろうか。この中で、他の種族へ応用が効くとしたら、その速度が考えられる。カメの進化速度は、その動作と同様、とても遅かったのではないかと思う。食性も大きな変化はなかったに違いない。

 徳島県には、私の友人で鎌田誠一さんという日本古生物学会会員の化石収集家がおられ、数多くの化石を発見している。カメ類の新種(Amyda species)も発見し認定されるなど意欲的に活動しておられる。彼は、静かな自然の中に身を委ね、谷の細流、小鳥のさえずり、木々のざわめきと一体化し、何百万年、何千万年の時を超えた化石と対話している。太古のロマンを感じながら、風や水、木々の歌を聴く時こそ、心が自然の波長に同調できると、彼は言う。

 私たち人類は、種族として長く生きていくために、アンモナイトやカメから学ぶことは少なくない。食生活しかり、日々の営みもまたしかり。バブル崩壊後、今後の日本経済は年率2,3%の低成長時代を迎えている。これはおそらく21世紀初頭まで続くだろう。効率至上主義から、ゆとりや心が重視される時代、slow and steadyをキーワードに、のんびり、ゆっくり。時には立ち止まりながら生きていくのが、真の豊かさかもしれない。

参考資料

1)著者は日本プライマリ・ケア(PC)学会の国際交流委員会委員長。日本PC学会は世界家庭医学会(World Organization of Family Doctors)の一員で、アジア地区で指導的立場を担っている。

2) 春山茂夫.脳内革命vol.1,2.サンマーク出版 1995, 1996.

3) 福田芳生. 古生態図週集・海の無脊椎動物.   川島書店, 1996.

4) 鎌田誠一氏 779-34 徳島県麻植郡山川町字翁喜台213-25 Tel:0883-42-7016

 

 舞台とうだつ

 認定内科専門医会の四国支部世話人代表である板東浩先生が、なんと平成5年12月に全四国音楽コンクールピアノ部門一般・大学の部で最優秀賞を受賞されました。音楽学校の大学院生を相手にこの快挙はとても医者とは思えません。彼にこのような才能があるとは誰も信じないでしょうが本当の話です。その後、彼は音楽活動を行いながら、内科専門医会雑誌に「医学と音楽」のエッセイを書き続け、今回から4年目に入ります。内分泌・代謝学を専門とする医師で、もしかしたら天才ピアニストかもしれない(?)板東先生の今後の連載を引き続き楽しみにしてください(内科学会内科専門医会会長 小林祥泰)。

 「本番行きます」。人情映画の第一人者、山田洋次監督の迫力あるかけ声が、のんびりとした田舎町に響き渡る。ここは「うだつの町並み」で知られる美馬郡脇町。徳島市から西へ40キロの片田舎は、町始まって以来の大騒ぎに揺れていた。町のほぼ中心にある古ぼけた映画館。ここを舞台に松竹の正月映画「虹をつかむ男」のロケが進行していたのだった。主演は西田敏行。古い映画館「オデオン座」館主の銀幕活男を演じる。小太りで素朴な主人公のわきを、田中裕子、田中邦衛、吉岡秀隆らの名優ががっちりと固め、涙あり、笑いありの人間模様が繰り広げられる。撮影現場には、おらが町を舞台にした映画の撮影シーンを一目見ようと、大勢の町民や、映画ファンがつめかけた。撮影現場はお祭り騒ぎだ。カットを撮り終えて俳優が休憩すると、観衆のあちこちから「西田さーん」「裕子ちゃーん」と歓声がわき起こる。ボランティアが「自分たちの出番だ」とばかりに、湯茶のサービスや道具の運搬に駆け出す。次の撮影の指示が監督から飛び、スタッフが慌ただしく走り出す。

 主人公の銀幕活男が運転しながら、助手席の若者と世間話をするシーンがある。この場面は、別々に一人芝居をして収録し、後でつなげるという手法で作る。このタイミングが微妙にずれるとNG。なぜなら車の外の景色は連続的なものであるからだ。カメラは片一方から取るので、その時、観衆は道路の片方にあっちへこっちへと寄せられる。その時に使われるのが「虎ロープ」。黄色とクロのツートーンカラーのお馴染みのものだ。

 「お静かに」。スタッフが多くの観衆にふれまわる。ピンと張りつめた緊張感が走る。ザワザワとした雑音が波のようにスーと引いていく。俳優たちは一瞬のうちに別人となり、映画のシーンへと溶け込んでいく。そこには、まさにスクリーンの中を縦横無尽に活躍する主人公たちの姿がある。スタッフたちは、俳優の息づかいまで収録しようと真剣勝負だ。観客も撮影の成功を祈るような表情で息を飲んで見守る。彼らは静かに佇みながら積極的にロケに参加しているのだ。

 まさに、オーケストラの演奏会と同じだ。演奏が始まる前、舞台の上は、楽器の音を合わせるために混沌とした状態になる。これが指揮者がタクトを振り上げた瞬間、空間に漂う様々な音が一瞬にして消失。この時間は、ほんの数秒しかないが実際以上に長く感じられることが多い。その静寂を打ち破るように怒涛のような演奏が始まる。聴衆は一言も発しない、まるで、自分たちが黙って聴いていることが奏者との役割分担にでもなっているように。

 コンサート会場には、ふたつの世界がある。一つは舞台の上で、それこそ一糸乱れぬ演奏を繰り広げるオーケストラ。もう一つは、こころの窓を開いて演奏を受け入れる観客。観客と奏者の間には、映画撮影時に、現場につめかけた観衆とスクリーンの中の世界を区切る「虎ロープ」のような、目に見えない「結界」が張り巡らされ、演奏中、両者は決して交わることがない。演奏が終わった瞬間、何よりも堅固なはずの結界は、跡形もなく消え去り、素晴らしい演奏という作品を仕上げたオーケストラと、その作品をずっしりと受けとめた観衆の心はひとつに溶け合うのだ。

 ここで、重要な働きをするのが舞台だ。映画では、虎ロープが現実の世界と映画の世界を見事なほどに仕切る。俳優たちは、虎ロープの中で、映画の登場人物になりきり、おそらく、本番前までは視界を埋め尽くしていたスタッフやロープの向こうに見えていた観衆はまったく見えなくなるのだろう。コンサート会場に、突如、演奏の開始と共に現れる結界。コンサートでは、舞台がこの結界の役割を果たすのではないだろうか。

 私は、人前でピアノ演奏をすることがある。芸術というよりも芸能に近いレベルだと思ってはいる。しかし、ひとたび、タキシードに身を包んで舞台にたつと、なぜか心地よい緊張感に包まれ、ベストの演奏を目指すことが至上の命題になる。同じ演奏会でも、舞台がないと、視線も心も聴衆と同じ高さになり、リラックスすることができる。サロンで聴衆の表情を楽しみながら演奏し、夜なら傍らに水割りの一杯でもはべらせておきたい気分だ。わずか数cmの高さであっても、舞台の有無は、これほど演奏者の心理状態に影響を及ぼすのである。

 演奏者が自分の世界に浸り、自由な心で思う存分の活動ができる舞台。山田洋次監督は、徳島の片田舎にその舞台を求め、俳優たちは、豊かな自然のふところで、スクリーンという舞台の上で、存分に物語を作りあげたのだ。映画の最後の場面には、急逝した故・渥美清さん演じる「車虎次郎」がひょっこり現れる。「寅さん」シリーズは48作を数え、「察しと思いやり」という、日本の文化を、スクリーンの上で、時に濃く、時にさわやかに伝え続けた。寅さんが、山田洋次監督の舞台に華を添え、次の世代へとバトンタッチする。

 ドーレミ/ソソラソ/ラレドラ/ソミソファとシがないペンタトニックの旋律だ。この音階で作られた日本の歌はとても多い。このメロディーを聴くと、「寅さん」の笑顔と日本の古き良き時代の思い出が、私たちの脳裏に鮮やかによみがえる。「それをいっちゃあ、おしめいよ」という名セリフとともに。「寅さん」の思い出がそれぞれの舞台風景を演出するのだろう。

 「虹をつかむ男」は1997年の正月映画として、無事スクリーンにデビューした。徳島では、映画の制作にかかわったボランティアや、ちょい役で出演した地元住民たちが、連日映画館に押し寄せ、短かったロケの思い出にひたった。私は映画館のスクリーンに映し出される郷土・徳島の美しい風景や脇町のうだつの町並みに、言いようのない懐かしさと一体感を味わっていた。

 この映画は、徳島県や地元町村、経済界、マスメディアなどの全面的な支援の下で制作された。ロケや協力態勢の模様は全国に報じられ、地元の徳島新聞では、映画ロケの記事が連日、カラー写真とともに第一面に掲載された。また、「虹をつかむ男」徳島ロケ受け入れ実行委員会などの多くのボランティアの活躍も見逃せない。徳島の人をここまで動かしたのは、日本人の血に脈々と受け継がれてきた義理と人情の心意気であり、きっと寅さんが、ほほ笑みながらバックアップをしてくれていたのだろう。

 物語の舞台となった脇町は、江戸時代、阿波藍の栽培と藍染めにより隆盛を極め、商人の町として発展した。今もその町並みは残っており、町屋の妻壁の横に張り出した防火のための袖壁「うだつ」が人目をひく。当時は、裕福な層が、このうだつを上げたりっぱな家を造っていた。相当な建築費を要したために、これを作れないことを、社会的な地位にからめて「うだつが上がらない」と言ったのだ。うだつを上げるのは、自分自身の舞台の上で人生という物語を演じるのに順風満帆の主役になれるかどうかを意味していた。そういう目で見ると、今の時代、うだつがあがらないことは、自己表現という意味で大きなストレスを招くと言ってもいいだろう。

 個々の人にとっての「うだつ」は、収入かもしれないし名誉かもしれない。その実現に向かって努力するから人は尊い。自分の舞台をセルフコントロールで作り上げ、「うだつを上げる」自己実現を目指して、精一杯の努力を続ける。「寅さん」「虹をつかむ男」は、我々の内なる舞台に、改めて目を向けさせてくれるのだ。

 

 自然とコミュニケーション

 ギネスブックに掲載か!?

前人未踏の40年以上にわたって続いているラジオ番組がある。TBSの「秋山ちえ子の談話室」だ。世界中を見渡しても、この域にまで達した人はいない。現在も毎日放送されており、今後の記録亢進が注目されている。

 199612月、緑豊かな徳島の街は、クリスマスのデコレーションで飾られ、ジングルベルの音楽でふんわりと包まれていた。赤や黄色のイルミネーションを纏った街路樹の下では、自然とアレグレットの速さで足が進む。そのリズムに合わせて、心も浮き浮きして踊るよう。ちょうどこの時、11,000回目の「秋山ちえ子の談話室」の生放送が、徳島の四国放送を発信源として全国津々浦々まで届けられた。記念すべき放送が徳島で行われたのは、徳島の地に特別の愛着を持つ秋山先生ご自身からの希望があったからである。

 4年前、秋山先生の講演会で、私たちは初めて秋山先生にお会いした。ユーモアを交えながらの巧みな話術に、思わず引き込まれてしまう。あとでゆっくりとお話を伺うと、医療福祉関係のボランティアも多く、障害者の施設の設立などにご尽力されているとのこと。その時から、秋山先生と徳島の信奉者との間に、心のコミュニケーションが始まったのだ。

 2年前には、秋山先生は胡弓(こきゅう)の名手と共に徳島を訪れた。徳島には、女性リーダー育成を目的とするグループがある。世界的なネットワークを持つInternational Training in Communication (ITC)というクラブだ。限定30名のメンバーは、音楽と文化を愛し、輝いている淑女たち。ITCは秋山先生を囲んで、「サロン風のお洒落な音楽会」を企画した。

 胡弓とは、手拳大ほどの胴体に細い首を持った中国古来の弦楽器で、右手に弓を持って演奏するものだ。ご存じの方も多いだろう。トップアーティストの許 可(シュ・クウ)氏の胡弓を聴くと、壮大な中国の大地に根ずく民衆や、大自然で生きとし生ける動植物の魂の叫びが伝わってくる。圧巻は「鳥のさえずり」。奏者自身がまさに小鳥になりきっているかのような錯覚に陥るほど、宇宙的な悟りの波動が満ち溢れていた。

 今回、徳島では、秋山先生の特別記念講演会とともに、青戸 昇氏による「1人ミュージカル」が催された。病弱な女の子と心優しい泥棒の物語。舞台上には1人、そでにはピアノ演奏者が1人しかいないが、音楽と舞台との相乗効果は素晴らしく、観衆の心を揺り動かした。

 心身に対する音楽のパワーをよくご存じの秋山先生は、遠い東北、岩手県盛岡市の田舎にある「いきいき村」の名誉村長さんも兼ねている。ここでは、「盛岡市民福祉バンク」活動の一環として、障害者がスタッフと一緒にいきいきと生活しているのである。この美しい自然の中で、盛岡市民と一緒に音楽を聴くための音楽ホールの建設に、秋山先生は東奔西走された。「ホンダ技研」の故・本田宗一郎夫人のさち様のご協力もあり、音楽ホール「風の館」は19967月にオープンした。柿落としは、佐藤宗幸さんの独唱。秋山先生は、「生の音響の刺激で人の細胞が目覚めるという変化があるように思われ、ヨーロッパで盛んに研究されている、音楽によるリハビリテーションではあるまいか」と音楽療法の本質を指摘されている。1997年1月には、長年にわたる文化振興に功績により、「都文化賞」が映画解説者の淀川長治さんとともに秋山ちえ子さんに贈られた。

 さて、最近話題となっている音楽療法のひとつを紹介してみよう。「自然音楽」である。木、花、草の植物や、風、水、大地、光、星などの大自然界からは、それぞれの生命エネルギーの波動が発せられている。それを音楽に転換したものが、自然音楽で聴けば癒され、歌えばもっと癒されるという。

 1995912日に,自然音楽は神奈川県で劇的に生まれた。当時、15歳の少女の指が何かに憑かれたように動きだして、ピアノを演奏し始めた。その日だけで、立て続けに数十曲。これは作曲ではなく、「伝曲」の始まりであったのだ。曲は1年間で500を越え、CDも発売されている。

 その女性は、現在17歳の風緒輪(かぜお めぐる)さん。幼少の頃より感性が豊かで、植物の呼吸や気持ちを感じとることができたという。中学生の時、成績はトップクラスでどこからみても聡明でしっかりした彼女は、宮沢賢治の研究者グループと出会った。その後、植物や風、川、海、石からの波動や音楽がよりはっきりと感じられるようになり、妖精の姿も見えるようになったという。

 これらの症状は、現代医学のものさしで計ると、幻聴や幻視と判断される。五感以外のものが認識できない大多数の人々を基準にして、第六感的なものがあれば精神病と診断されてしまう。すなわち、天才と精神病者の区別がついていないため、天才は往々にして精神病の枠の中に閉じこめられるのである。幻聴、幻視は宮沢賢治にもあったとされ、多くの童話や詩には、それが一杯書き込まれている。これらが新鮮で幻想的と評価されるのは、五感でとらえきれない「何か」の素晴らしさが認められたためだろう。賢治は、1896年に現在の岩手県花巻市で生まれ、自由に林野を散策したり山や丘陵を跋渉するなど、自然と交感していた。盛岡高等農林学校に首席で入学し、地質の調査や研究が高く評価され、助教授への推薦の話もあったほどだ。その後、4年間花巻農学校の教諭を勤めた後、20名ばかりの同士と新しい農村の建設を目指す。羅須地人協会を設立し、稲作指導や肥料設計などで多忙をきわめた。科学者に加えて、宗教者・詩人・音楽家でもあった賢治は、水彩画を描いたり、幻燈会やレコードコンサートを企画。4週間上京した際には、図書館やタイピスト学校で勉強し、セロ、オルガン、エスペラント語を習うなど奮励ぶり。ベートーベンなどの曲に歌詞をつけている。種山ケ原をこよなく愛し、詩を幾篇も書いた。透明で清々しい風の天使が高原を駆け抜けるイメージが、ドボルザーク作曲の「新世界交響楽」第2楽章にぴったりと一致。そこで、賢治はそのメロディーをこの詩の曲とした。

  <種山ケ原>  春はまだきの朱(あけ)雲をアルペン農の汗に燃し縄と菩提樹皮(マダカ)にうちよそひ風とひかりにちかひせり・・

 ほかに、彼が大正7年に作詞作曲をした歌が残されている。

  <星めぐりの歌> あかいめだまのさそりひろげた鷲のつばさあおいめだまの小いぬひかりのへびのとぐろオリオンは高くうたひつゆとしもとをおとす・・

 不思議なことだが、この歌詞には、大正13年から書き始めた「銀河鉄道の夜」の旅の秘密が塗り込められているという。銀河系の星座をめぐって、「本当の愛を尋ねる旅」という意味があるそうだ。これらのことから、風緒輪さんと宮沢賢治は、花鳥風月の波動と同調し、自然に語り合えるとみることができる。賢治が、遠い銀河の彼方から言霊(ことだま)を送り、風緒輪さんが聞き取って伝曲しているのではないだろうか?

 私たちは時に、インスピレーションを感じることがある。inspirationとはinspire(吹き込む)という意味で、私たちを守ったり指導して頂いている神様や仏様が、耳元で囁いて脳の中にアドバイスを吹き込んでくれるのかもしれない。これを如実に表しているのが、オードリ・ヘップバーンが最後に出演し、気品に溢れた天使役を演じた映画「オールウェズ」である。

 ところで、アニメの傑作として名高い「銀河鉄道999」が、このたび日米合作のミュージカルとなり、1997年冬から1998年春にかけて各地で上演される。英語で書いた脚本を日本語に翻訳し、演出は「ジーザス・クライスト・スーパースター」のジェームス・ロッコ、作曲はロサンゼルスを拠点に活躍する都倉俊一が担当する。原作者の松本零士は、「この作品はぼくのライフワークだが、実は絵をかきながらいつも音楽をイメージしていた。夢が今かなうという思いだ」と。

 最後に、秋山先生は宮城県出身で、岩手県に隣接。「いきいき村」はまさに、賢治が目指した北の理想郷「イーハトーブ」そのものである。賢治の生誕100年目に、音楽ホール「風の館」がオープンし、自然音楽が成長しつつある。これらがあまりにもタイミングよく繋がっているように感じるのは、私だけだろうか?

参考資料

1) 秋山ちえ子.さよならを言うまえに.岩波書店, 1997.

2) 社会福祉法人いきいき村 〒020盛岡市神明町2-2 馬場勝彦理事長、秋山ちえ子村長 Tel 0196-53-4378

3) 都文化賞. 朝日, 讀賣, 東京新聞など各紙1997. 1.21

4) リラ研 自然音楽研究所 編. 癒しの自然音楽. でくのぼう出版. 1997. Tel: 0467-45-1230

5) CD 宮沢賢治の歌とリラの響きLyra-1002, Tel同上(このCDでは、合唱の歌に混じって、透明な幾つもの高い周波数の音が、天使のような声に聞こえる。音響学的には、多人数による倍音かうなりかとも思われるが、周波数分析器にかけると純音で、人間からは発せられない音であるという。)

6) 宮澤賢治. 歌曲. 宮澤賢治全集第六巻詩[V] 本文篇. 筑摩書房, p327-387, 1996.

 

 スケートとワルツ

 雨に濡れたアスファルトの路面が左右に揺れ、水しぶきとともに後方へ飛ぶ。盛り上がった背中の筋肉が激しく上下に揺れ、上体が浮いてきた。蹴り足に力が入らずバランスも崩れる。「ここまでか・・」。頭の中を絶望感がよぎる。大きく振る両手の向こうには白いゴールライン。スローモーションのように足元を流れ去る。空白の一瞬、全身から力が抜けていく、「終わった・・」。

 私はピアノを弾くスーパーアスリート・Hiroshi Ban Do。平成9年9月、日本海を遥かに望む秋田県の特設コース、大潟村ソーラースポーツラインは、雨にけむりながら私の登場を待っていた。「第3回インラインスケート・ワールド・イン大潟」。世界中で3000万人、日本国内でも120万人の愛好家がいるインラインスケート。その中でも私は走りながらワルツを奏でる唯一の「変わった」選手だったのだ。

 思い起こせば1年前、第2回大会にエントリーしたが惨敗。臥薪嘗胆を誓い、アロエを嘗めながらトレーニングを続けてきた。今回、2000mスプリントで、ようやく第6位に入賞。ロッキーのテーマ曲が流れる中降り注ぐ雨に向かって私は両手を突き上げていた。私は子どもの時から、アイススケートが好きだった。自分の力で速く滑れ、気分は爽快。スケートに必要なファクターは、リズム、バランス、パワーの3拍子でないかと思っている。何といっても基本はリズム感。フィギアスケート靴で滑る時は、3拍子のワルツ。この重心の移動は、社交ダンスのワルツに似ている。1拍目には腰をやや落とし重心を低くする。2拍目、3拍目には背筋を伸ばし優美に舞う。ショパンのようにエレガントな雰囲気で。アン・ドゥ・トロワ。

 一方、ホッケー靴では、上体を折り、獲物を追う野獣のごとく、地響きを立てて突進。この場合は2拍子音楽では、激情的なベートーベンに相当するだろうか?スピードスケート靴を履いた時は、この両者の中間だ。3拍子のリズムをベースとした上に、大きく2拍子を刻む8分の6拍子がぴったりだ。指揮者がタクトを振るとき、腕は3拍子で、身体は2拍子で揺らいでいる感じ。私はいろんなスポーツが好きだが、このリズム感こそ、野球のバッティングや守備、ゴルフのスウィング、サッカーのドリブル、ラグビーのステップなどに通じるものと確信している。

 次に重要なのはバランス。私たちは身体の重心が両足の間にあれば安定して立てる。しかし、スケートでは、片足で立つ足の外側に重心が来た時に、倒れそうになる恐怖にうち勝たねばならない。最後にパワー。これは以外と不必要だ。素人では思わず無駄な力が入ってしまう。初めてスキーをした時に、妙なところに筋肉痛を覚え、くたくたに疲れた経験が誰でもあるだろう。やや慣れて中級になるとその辺が解消し、楽に滑れる。スケートも同様に、いかに力まずに滑るかを追求しているのだ。漫画YAWARAでは、柔を育てた猪熊滋悟郎が、「わしの柔道は、5-10人抜きごときでバテるようなムダな力の遣い方はしとらん」と、極意を述べている。ピアノ演奏でも同じことが言える。指の先端に力は入ってはいるのだが、背中、肩、肘、前腕、手首、指のすべてを脱力させていると感じられなければ、綺麗な音色はでない。これができれば「究極の技」。達人ともなれば、白い鍵盤を撫でるように良い音色を出す。これは、白い肌をかわいく撫でると、良い音色?が奏でられるのと共通しているのかもしれない。

 スケートで最も手強いのは、風圧である。風圧は速度の3乗に比例するという。そんなはずはないと最初は思った。確かに、時速20kmまでは風圧の影響は少ない。しかし、時速が30-40km以上になると、まるで目の前に見えない壁があるかのような強い抵抗を感じる。すこし腰をかがめ上体を前方に倒すと、風圧が少なくなり速度があがる。しかし、低い姿勢を保つのは至難の技だ。この姿勢を保つように、私は背筋力のパワーアップに5年間を費やした。トレーニング方法はスクワット。毎日、入浴の前に100回。出張に行けばホテルの部屋にあるイスや机を肩にのせて200回など。私の眼は、星飛雄馬(巨人の星の主人公)の瞳の如く、メラメラと燃え続けていたのだ。

 医学的に、スケートはエアロビクスである。ジョギングやウォーキングと同じく、周期的に筋肉の収縮と弛緩を繰り返してエネルギーを消費する。最近では、ニューヨーカーがインラインスケートを履いて、町並みを闊歩というか、「滑歩」しているとのニュースを聞いた。心を燃やしながら、身体も好気的に燃やし、健康に良いスケートを皆様にも是非ともお薦めしたい。

 

 カラオケと健康

 内科専門医会四国支部代表世話人である板東 浩先生は、内分泌・糖尿病学を専攻する医師であるとともに、ピアニストとして音楽家の仕事もしています。また、インラインスケートの全国大会で入賞という快挙を演じるなど、彼のタレントには全く驚かされます。もしかしたら、特別の遺伝子が組み込まれているのかもしれません。このたび、彼は、何と、日野原重明監修、板東 浩編曲のCD付きの楽譜集「日本の四季のうた バイオミュージックから斬新なハーモニーへ」を出版されました(音楽之友社、1200円)。彼自身がピアノ演奏し,春の小川、赤とんぼなど日本人にとって懐かしい曲がお洒落に編曲されています。いちど、お近くの楽器店や書店で買ってあげてください。(内科専門医会会長 小林祥泰)

 5年前、木々が紅葉に包まれはじめた頃、私はデンマークのSteno病院で糖尿病の研修を受けていた。ここは,かつて糖尿病の権威として知られたHagedorn先生が研究されていた病院である。病院のホールには,すべての国民から尊敬されている先生の肖像画が掲げられている。日本糖尿病学会にもHagedorn賞という研究奨励賞があるほどだ。そのお姿を拝見すると,優秀な頭脳が入った頭はハゲトルン状態で,後光に包まれて輝いているように思えた。

 冗談はさておき。ハードな研修を終え、私は仲間と一緒に夜のコペンハーゲンに繰り出した。酔っぱらいが闊歩する日本の歓楽街とは異なり、人々は静かな趣で町を行き交う。街角のバーに立ち寄り、ボックス席に陣取った。テーブルの上には、ビールサーバーがあるだけ。つまみもなければ、店員の愛想もない。他のテーブルでも、若者達がビールだけで何時間も会話を楽しんでいる。その素朴な異国の雰囲気が私たちを包みこみ,安堵感さえ与えてくれる。

 その雰囲気から浮かび上がるようにカラオケ装置が据えられていたのに驚いた。よく見ると日本のP社製のレーザーカラオケだ。ここにも,日本が世界に誇る音楽文化が根づいていた。早速,約2000曲の英語の歌の中から自分の持ち歌を見つけ,得意のJapanese Englishで熱唱。小さなステージだが,無我の境地に心は大きく膨らんでくる。地元の若者は、スタンダードな名曲を好むようだ。我々も一緒に加わり、音楽を通じて国際交流。音楽に国境はないことを実感したひとときであった。

 カラオケは楽しく,かつ最も有効な音楽療法の一つである。現代はストレス社会。誰もが心と体が疲れて病んでいる。心身を癒すには、音楽が最も適している。自分が好きな曲を選び、大きく深い呼吸で思い切り歌う。大きく深い呼吸で、自分に酔いしれ、スポットライトを浴びて、スターになった自分に,ストレスは霧散していく。

 カラオケは、1970年代半ばに登場した。飲み屋のカウンターから生まれ、スナックで生演奏に代わり、録音テープを使う新しいサービスが始まった。カラオケ機器が初登場し、その後家庭用カラオケがヒット。カラオケの勢いは止まるところを知らず、レーザーディスク(LD)カラオケまで発展。92年からは電話回線を使った通信カラオケが登場し、曲数が飛躍的に増え、新曲導入もスピードアップした。近年は、カラオケボックスが広く普及し、低料金のため、学生や主婦なども手軽なレジャーとして楽しむようになってきた。

 その反面、いろんな問題が浮上してきた。1万曲以上の曲数を揃えるために、目次本は電話帳なみの厚さで、新曲の洪水によって、歌える歌、歌いたい歌が探せない「選曲難民」が増えてきた。また,簡単に歌えない歌が多くなり,「歌唱難民」も増えた。

 最近のベストチャート,安室奈美恵のCan you cerebrate?をみてもご理解頂けると思う。確かに良い曲ではあるが、わざわざ音程を高くしてあり、字余りの歌詞で、速いテンポで一気に歌い上げなければならない。ちょっとやそっとの練習では歌うのは至難の技だ。近年のヒット曲は,高揚感や緊張感を保ちながら,聴く人すべてを引き込んでしまう一体感をも表現しなければいけないからだ。容易に歌えないからこそ素晴らしいというのが、現代の価値観である。

 しかし、考えてみればこれは本末転倒。本来、みんながリラックスして楽しめるはずのカラオケが、特別のものになり、楽しめなくなってきている。カラオケの将来にすこし翳りがでてきたというニュースも頷ける。変化が早すぎて、ついていけない人々も多くなってきたのである。「カラオケ窓際族」とでも言えようか。この現象は、科学技術の進歩と似ていなくはないか。最初の頃は理解できるが,最先端の話になるとわからないので聞く気がしない。ワープロなら打ってみる気になるが,難しいコンピュータの操作になると触れたくもない。すなわち、難解でマニアックなレベルになると,人間は許容できなくなるのだ。許容できなくなると,感情論での賛否の議論が始まる。多くの場合,感情論が独り歩きして,革新的なハズの最新技術がおぞましい悪魔の技術になってしまう。その最たるものがクローン技術だろう。

 昨年,世界中の話題をさらったクローン羊の研究は、本来、人間の病気を治療するための実験から始まった。クローンの有用性は理解できるが、クローン技術がここまでになると,「孫悟空の分身の術」みたいに軽いノリではすまされない。人間に応用しないから大丈夫と言われても、過ぎたるものには拒否してしまう。「クローン人間が出現か?」というような驚愕するニュースが全世界をかけめぐっている昨今、少し、立ち止まって考えたほうがよいのではないかという見方も無理はない。

 現代社会の急速な変化は,通信カラオケの分厚い目次本ややたらと難しい最新曲目にも似て,接する人々を疲れさせてしまう。やはり,人間には,身の程に合った「ほどほど」のスピードが似合っているのだ。「ほどほど」のリズムに合わせて人々の心を癒す,と近年注目を集めているのが音楽療法。これをカラオケに応用すると・・・。

 人々の心には,忙しすぎる,給料があがらない,妻がきれいにならない,などと不平不満がいつもくすぶっている。そこで,まず,日本人の心の故郷である「演歌」を,恨み辛みを込めて唄い込む。次に,学生時代を共に過ごしたフォークソングやポップスを,思い出に浸りながら爽やかに奏でる。最後に,気分がのってきたら,練習を重ねたヒットソングに挑戦してみよう。自分も変わり,回りの見る目も変わってくるはず。

 これをマスターしたら,次に目ざすは達人のレベル。オドオドしながら無理して若者の歌を歌うのではなく,誰がいようといまいと,ど演歌を平気で聞かせてやろうと,太っ腹人生を歩もうではないか。右を向いても左を向いても暗いニュースばかり。その上に,社会に乗り遅れているという意識が,良い方に作用するハズがない。改めて自分の足元を見つめ直し,「ほどほど」の中の豊かさに気づけば,社会を見る目も違ってこようというものだ。以前に,中年層が演歌・歌謡曲を歌っていた古き良き「オジカラ期」のように。

  彼女の卓越した感性はどこから来るのだろうか?彼女は、楽譜に書かれていない作曲家の意図をくみ取り、作曲者と対話ができるという。また、幼少のころから多くの書に親しみ、近頃はロマン・ロランやヘッセなども愛読しているのも一因か。さらに、作曲者から得たインスピレーションを得て、何を伝えたいかを熟考している。だからこそ、バイオリンで自己表現し、聴衆を感動させることができるのであろう。

 心の対話。日常診療で、これほど我々医師に問われるものはない。患者さんの痛みは、どこにあるのか。それは体の調子が悪いのか、もしくは、心の傷からなのか。病んだ患者さんを前にして、ひとつひとつ丁寧に話を聴いていく。すると、白衣の鎧(よろい)に対して、構えていた患者さんも、少しずつ心を開きだし、やがて病の本質が見えてくる。

 この時に必要なのが感性だ。問診の技法についての本がマニュアルとして出ているが、これだけではだめ。医療にはサイエンスとアートが必要というが、医師に感性がなければ、患者のちょっとした変化に気づくことができない。相対するクライエントの生き様を理解し、共鳴し、シンクロできなければ、一歩踏み込んだ問いかけもできない。

 私たち医師も、様々な修練や経験を積みながら、感性を磨いていきたいものだ。ショパンとジョルジュが向かい合って、心の対話を試みたように、診療もまた、心の対話なのである。

 <資料>

1. CDの問い合わせ: 川崎医科大学地域医療学 岸本寿男 Sky & WindFAX 086-462-1199

2. 図はジョルジュ・サンドのサロン 下段左端がショパン、上段左端から順に、リスト、サンド、ドラクロア

 

 感性で心の対話

 ダニーボーイが、異色の音色でホール内に響く。しかし、ジャズでおなじみのサックスもなければトランペットもない。平成104月、博多市で開かれた日本内科学会総会でのランチコンサートは、奇妙なセッションで観客を魅了していた。私は、スライドを使って、ショパンの生涯やバイオミュージックについて紹介しながら、ピアノを演奏。川崎医科大学地域医療学の岸本寿男先生は、情緒豊かに尺八を演奏したのだった。先生は、幼少のころから音楽に親しみ、アメリカのジャズメンと共演したり、CDを出したり。すなわち、和、洋、古典、近代音楽を自由自在にこなすミュージシャンだ。米国留学中には、優れた作曲者に送られる「エミー賞」を受賞するほどの本格派である。

 今回のセッションのために、以前から連絡を取り合っていたのだが、実は今回が初共演。初めてとなると、たとえ玄人どおしであっても難しい。音楽は、奏者の心情を曲にのせて表現するのだが、共演する相手のキャラクターが正反対なら、演奏のしかたも変わってくる。アグレッシブな相手がパートナーなら、テンポも早くなるだろうし、逆にマイルドな相手なら、同じ曲でもソフトタッチになるがごとく、である。これがうまくかみ合わないと、実にぎくしゃくした演奏に陥ってしまいがちだ。今回、未経験の私にとって、はたして洋楽器と和楽器のジョイントがうまくいくものかどうか、少し不安を感じていた。

 しかし、このデュオコンサートは、成功だったのではないか、と思っている。尺八が、ピアノと見事にマッチし、バランス良くまとまったからである。演奏中には、単に尺八の音色だけでなく、人間の息づかい、鼓動、さらに生命の躍動感までが、私の体に脈々と伝わってきた。日本古来の楽器であるがゆえに、日本人の心の琴線を共鳴させるのかもしれない。それにしても、二人の演奏がうまくいったのは、互いの感性がある程度のシンクロを見せたからだったのではないだろうか。

 感性にまつわるエピソードと言えば、やはり、かの偉大なショパンを思い出す。ピアノや音楽が優秀で、頭脳明晰なのは当然のこと。文章は上手で、学内新聞を発行。デッサンや絵画に長け、演劇をさせると名優の素質をのぞかせる。おおよそ、芸術と呼ばれる様々な領域で、豊かな感性を見せつけていた。しかし、素晴らしい素質を持ったショパンも、こと「恋」に関しては、なかなかシンクロできる相手に出会えなかったのである。彼は、何度か激しい恋をし、そして敗れている。つらく悲しい恋の末に巡り会ったのは、小説家としても名高いジョルジュ・サンドだったのである。音楽を理解し、絵画も玄人。彼女がショパンを描いた美しい肖像画は今に残っている。彼女とショパンは、バルザックなどの芸術家がいつも集まるサロンで時を過ごし、音楽、美術、文学など多方面にわたって、時には議論する機会に恵まれた(図)。彼は、この中で感性に磨きをかけ、誰もが為し得ない素晴らしい仕事を残したのである。そのパートナーとしてのジョルジュは、ショパンの恋人であり、母親であり、看護婦であった。さらにショパンという人間を理解し、心をいやす精神科医でもあり、ショパンが世に出る大きな力となったのだ。

 人間の感情は三つのレベルに分けられる。根底にあるのが情動。これは喜び、悲しみ、恐れ、などの基本的な感情をいう。次が情緒で、情動をうまくコントロールできること。幼少から学童のころに形成されるが、大人になっても、情緒がない人や情緒不安定の人は、すこし問題である。そして、三つ目が感性。たとえば、草花や音楽に触れたとき、「かわいいね。気持ちいいね」と母親が言えば、その心が子供に伝わる。決して、「この花はきれいと憶えなさい」と強制するものではない。感性豊かに育った子供は、芸術に接すれば「素晴らしい」と感じ、ハンディキャップがある友達には「お気の毒に」と感じて、決して、いじめたりはしない。これらが、人間しか感じることができない感性なのである。

 ショパンとジョルジュの感性が、見事にフィットしたからこそ、ショパンの才能が何倍にも増幅されたのかもしれない。ショパンは、やや女性的でデリケートな性格。一方、ジョルジュは、英語で男性の名前であるGeorgeの筆名で執筆活動を行い、「男装の麗人」として知られていた。ショパンとジョルジュは、お互いの研ぎ済まされた感性で、常に心で対話していたとは言えないだろうか?作曲家は、心の揺れやひだなどに隠された心情を曲に託し、演奏家は楽器を使って人に伝える。心が伝わってくるから、人は音楽に感動し、涙するのだ。二人の出会いは、こうした名演奏家や名曲との出会いにたとえられまいか。

 最近、高校1年生の日本人天才バイオリニストが評判となっている。その演奏を聴くと、確かにその天才性が感じられる。先日、彼女のドキュメンタリー番組が放映されていた。通常、天才演奏家の誕生には、祖父母の世代から音楽を嗜む家庭環境が必須とされる。しかし、彼女は、ごく普通の一般家庭の子女で、両親は特に音楽をするわけでもない。幼稚園の時に、初めてバイオリンを見て憧れ、割り箸2本を、バイオリン本体と弓にみたてて、遊んでいたという。多くの批評家や指揮者は、「あれほど若いのに、内在する音楽性は、ベテラン演奏家の誰にも引けを取らない」と絶賛し、高く評価している。彼女の卓越した感性はどこから来るのだろうか?彼女は、楽譜に書かれていない作曲家の意図をくみ取り、作曲者と対話ができるという。また、幼少のころから多くの書に親しみ、近頃はロマン・ロランやヘッセなども愛読しているのも一因か。さらに、作曲者から得たインスピレーションを得て、何を伝えたいかを熟考している。だからこそ、バイオリンで自己表現し、聴衆を感動させることができるのであろう。

 心の対話。日常診療で、これほど我々医師に問われるものはない。患者さんの痛みは、どこにあるのか。それは体の調子が悪いのか、もしくは、心の傷からなのか。病んだ患者さんを前にして、ひとつひとつ丁寧に話を聴いていく。すると、白衣の鎧(よろい)に対して、構えていた患者さんも、少しずつ心を開きだし、やがて病の本質が見えてくる。

 この時に必要なのが感性だ。問診の技法についての本がマニュアルとして出ているが、これだけではだめ。医療にはサイエンスとアートが必要というが、医師に感性がなければ、患者のちょっとした変化に気づくことができない。相対するクライエントの生き様を理解し、共鳴し、シンクロできなければ、一歩踏み込んだ問いかけもできない。

 私たち医師も、様々な修練や経験を積みながら、感性を磨いていきたいものだ。ショパンとジョルジュが向かい合って、心の対話を試みたように、診療もまた、心の対話なのである。

 <資料>

1. CDの問い合わせ: 川崎医科大学地域医療学 岸本寿男 Sky & WindFAX 086-462-1199

 

2. 図はジョルジュ・サンドのサロン 下段左端がショパン、上段左端から順に、リスト、サンド、ドラクロア

 

 ロンドンとあわの名医

 「オペラ座の怪人」をロンドンで観た。繁華街として知られるピカデリーサーカスには、マジェスティック劇場がある。以前、「オペラ座の怪人」が日本で上演された際、印象的だったのは、怪人がオルガンを弾き、それに合わせて歌姫が歌うシーン。ロンドンのステージでも、この場面では、怪人が「My Music, my Music !」と、心の奥底から絞り出すような声で呻る。歌姫も鏡の前で、揺れ動く心が、微妙な仕草で表現される。歌や踊り、雰囲気などは、さすが、本場ならではのものがある。ヨーロッパで生まれ育ち、歴史や文化が身体に染み着いている人が演じると、やはり、ひと味もふた味も違うような気がした。

 イギリスの歴史や文化の概略を知りたいと思い、博物館を検索した。「地球の歩き方」を片手に、24時間乗り降り自由の市内バスに乗り、まず大英博物館を訪れた。ここは、世界最高の宝物館で、まもなく250年となる。設立のきっかけは、サー・ハンス・スローンという内科医。彼は医業の傍ら、探検家として世界中を回り、遺跡や民族品などのコレクションは何と8万点にのぼった。

 その後、国が管理するようになり、古今東西の歴史的な文化遺産がここに集約されている。入口の近くには、有名なロゼッタ石。表面には3種類の文字で書かれた文章が彫られ、古代のロマンが甦ってくる。また、ローマのパルテノン神殿の貴重な大理石の数々なども、部屋一杯に並べられている。かつて世界で君臨した大英帝国の権力を見るようだ。何といっても、アーティクルの多さとスケールのでっかさに茫然としてしまった。

 英国はかつての大英帝国から現在の福祉国家へと変貌したが、歴史を大切に扱う風土が感じられる。数えられないほどの博物館があるのが、英国の文化だと言えよう。何から語り出しても、ぐるぐる回りながら、最後には文化にたどり着くのである。

 このたび、私は興味深い展示に出会った。阿波徳島の名医が、日本代表として紹介されていたのである。科学博物館の4、5階は、世界の医学史のフロア。ヒポクラテスもいれば、パスツールもいる。ここで、世界的な産婦人科医の賀川玄悦が私を迎えてくれたのである。

 賀川玄悦(元禄13-安永6年、1700-1777)は、京都で活躍し後に阿波藩の藩医となった(図1)。明和2(1765)に、彼の莫大な臨床経験を集大成した名著「子玄子産論」(4巻)が刊行されたが、これは近代日本産科学の最初の書物であった。この書は「日本産科問答」の形式でオランダ語に翻訳され、有名な蘭学の医者シーボルトによって欧州医学界まで紹介されたのだ。

 彼が残した医学的な業績の中で、最大なものは、正常胎位の発見である。すなわち、胎児は「上臀下首」であることを、世界にさきがけて発見し、論じた(図2)。その箇所には、「妊娠5ヶ月以後になると、胎児は瓜の大きさになり、必ず背面倒首の姿勢をとる。」とある。杉田玄白は、「解体新書」巻四の中で、「今この説を作るは以て子玄子のこの道に功あるを称するなり」と述べているほどだ。

 さらに、玄悦は回生法(鉄鉤法・切胎術)というわが国最初の産科手術を行い、数多くの産婦の生命を救った。彼の門弟は、賀川流産科を継承し、江戸末期、わが国産科医の十中八・九は賀川流産科を学び、明治以降の西洋産科学受容の素地を作ったのである。

 本邦の近世医学では、世界に誇ることのできる大きな仕事が3つあるという。それは、華岡青洲の全身麻酔(1805)、賀川玄悦の正常胎位の発見(1765)、大矢尚斎の腎臓機能の実験(1800)であり、特に、賀川玄悦は、わが国の近代産科学の創始者といっていい人で、特筆すべき点が多いと、賛辞を述べている。日本婦人科学会は、昭和18年に玄悦墓碑を改築し、昭和52年には、同学会と日本医史学会は顕彰碑を建立するなど,先生の遺徳を偲んだのである。

 玄悦の功績は、国際的にも評価されている。以前には、天皇陛下が、玄悦の人類愛と学問上の功績を称賛し、第9回国際産婦人科連合世界大会(1979年)でスピーチを行い、医学雑誌サイエンス(1990年)にも論文が掲載された。

 初代の玄悦に引き続いて、賀川家は京都で産科学をおさめた。3代目の玄悦は、はなはだ篤学の士で産科学に多くの工夫を加え、当時産科医として高名であった。彼は京都で御殿医として、明治天皇をも取り上げている。その後、8代目玄道は、京都から徳島に移り、代々阿波藩医を務めた。9代目玄庵は、藩医学校を創設し、これが現在の徳島大学医学部へと続く。また、10代目一郎は、徳島医学会の発会式典で学術講演を行い、賀川式箆(へら)型穿ろ器などを発明し、特許まで取得。また、徳島産婆養成所ならびに看護婦養成所を開所し、現在の徳島県医師会と附属看護学校へと発展してきたのである。その後、11代清子は産婦人科の女医で、趣味は日本音楽や茶の湯、生け花で、「本県刀圭界に咲く一輪の名花」と言われた。12代悦子は東京芸大の井口元成の門下生として研鑽したピアニスト。13代となる潤は、南極越冬観測隊の医療担当に選ばれた経験があり、現在徳島で脳外科医院を開業している。

 私事で恐縮だが、12代目の悦子先生は、私のピアノの先生で、恩人である。先生には、ゆったりとした心の余裕があり、芸術、文化、教育、医学など、幅広くお教え頂いた。再現芸術であるピアノ演奏だけでなく、編曲や作曲などアドリブを行う電子オルガンも推奨。男の子にとって、音楽は生活の糧とするより、趣味とするのがよい、と医学部進学を勧めてくださった。大学に入学後は、音楽より身体の鍛錬が重要だと、スポーツを勧められ、私は現在に至っている。

 古い資料を調べると、玄悦が正常胎位を発見した同じ時期に、英人William Smellieもイギリス国の産科書に初めて正常胎位を説いていることがわかった。文化の異なる国で同じ研究が進んでいたのは不思議な縁を感じる。賀川玄悦という偉大な名医が、当時、英国でどれほどの高い評価を受けたか。日本の演劇ファンを魅了して止まない「オペラ座の怪人」のごとく、彼の国では「ニッポンの快人」と映っていたかもしれない。

資料

1)緒方富雄. 蘭学のころ、昭和25.

2)酒井シヅ. 日本医療史、1982.

3)賀川明孝. 賀川玄悦の系譜とその周辺. 四国電話印刷(株)1995. この書籍は、平成7年度徳島新聞社賞を受賞した.

4)杉田玄白. 解体新書, 安永3年, 1774.

5)阿知波五郎. 医史学点描, 1987

6)A set of Anatomical Tables with Explanations and an Abridgment of the Practice of Midwifery, London 1754.

 

図1 賀川玄悦 の肖像画 図2 子玄子産論の正常胎位を説く頁 

 

 しゃぼんだまとバブル

 「しゃぼんだま飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで、こわれて消えた」

 ステージには、黒いコスチュームの男性ピアニスト。スライドで映写されたしゃぼんだまの絵と歌詞を背景に、彼は「しゃぼんだま」の曲を歌いながら、ピアノを弾いている。足は華麗なステップを踏みながら、4ビート。聴衆は、一緒に歌いながら手足を動かし、心も身体もリズムカルに揺れていた。これは、文部省委託事業によるワークショップの一こまである。男性ピアニストとは、実は私のこと。今回の企画では、音楽に加えて運動も併せて行う「音楽運動療法」の理論と実践を紹介し、会場内を音楽とダンスの渦に巻き込んだ、というわけである。

 話はもどるが、「しゃぼんだま」の2番の歌詞「しゃぼんだま消えた 飛ばずに消えた  生まれてすぐに、こわれて消えた  かぜかぜ吹くな  しゃぼんだま飛ばそ」 は、作者の野口雨情が、可愛がっていた親戚の子供が病気で亡くなった時に、書き下ろしたとされる。美しくはかない子供の命を詠んだのが、「しゃぼんだま」なのである。

 さて、「しゃぼんだまが壊れる」ことを、別の言葉で表現すると、「バブルがはじける」となる。現在の日本は、バブル経済がはじけた後遺症が長く尾を引いており、これは一種の慢性病と診断される。日本の生活や慣習なども深く関与しているので、生活習慣病とも言えるだろうか?治療には、メスならぬ、大なたを振るわねばならないかもしれない。病院なら、OR (operating room)で悪い箇所を切除されるところだ。手術を受けた患者は、リカバリールームで手厚く看護される。しかし、経済のリカバリーは簡単ではなさそうである。今日の経済状態は戦後最悪とも言われているので、とりあえず、ER (emergency room) に搬送しなければならないのだろうか?経済の血液に相当する「お金」の流れが悪くなっているのが、現状である。臓器を企業とするなら、「多臓器不全」に陥っている状況で、次々と経営が悪化し、緊急な手術が必要な状態である。

 話はかわって、音楽家の中には、バブルがはじけた人も多い。何といっても、代表格はモーツアルト。天才ともてはやされ、パーティ漬けの日々を送っていたが、晩年には、悲惨で惨めな最期となってしまった。また、バブルなどとは関係がなく、常に貧困につきまとわれていた作曲家は、かのベートーベンである。疾病や難聴にもめげず、人生と闘い続けていた。その一方、交響曲第9番「合唱」で、歓喜の歌を私たちに与えてくれるなど、超人ぶりを発揮した。

 一方、裕福で安定した人生を送った作曲家には、メンデルスゾーンがいる。彼は、銀行家の家庭に生まれ、回りの一族も資産家で、祖父が著名な哲学者であるなど、文化や教養レベルも高かった。このような生活感が、彼の明るい雰囲気の作風に大きく影響していると考えられる。

 著名な作曲家や音楽家、芸術の巨匠たちをみると、バブルがはじけて、どん底の生活から這い上がって、歴史に名を残した人は多いようだ。常識的な思考や生活からは、ある枠をこえた発想は生まれない。芸術家の人生には、「波瀾万丈伝」がつきものなのだろうか?

 Life is short, Art is long. という言葉がある。人生は短いからこそ、貴重で素晴らしい。したいことが一杯あっても、できないから幸せだ。もし、不老長寿の薬が作られたら、人生は楽しくなくなり、苦痛となる。ストレスを感じながら、渋々、仕事をしていると、血圧があがり、脳の血管のどこかが破裂するかもしれない。だから、仕事も遊びも、楽天的にやっていきたいものだ。

 私達の大切な命は、宇宙的・地球的ものさしで計れば、一瞬。音楽も瞬間の芸術であり、消えてしまうからこそ美しい、とも言える。一度、モーツアルトが作曲した「短くも美しくも燃え」を聴きながら、人生を考えてみるのも、いかがだろうか?

 

 国体への道

 内科専門医の中でもピカ一の変わり者板東浩先生がまたまた新聞紙上を賑わしてくれました。何と今度は国体のスピードスケート成人Bクラスの徳島県代表で500m1000mに出場したというあつかましさ。42才の医師?にしてこの快挙。ワルツで滑って転倒しても絵になるこの人は予選落ちしてもなお意気軒昂、本番で自己ベストを更新し、まだまだ速くなると豪語しています。ピアノコンクールには優勝するは、バイオミュージック学会はやるは、とにかくしばしも休まず努力を続けています。本当に医者をやっているのか心配になる板東先生の活躍ぶりを見てやって下さい。(日本内科学会内科専門医会会長 小林祥泰)

 長野五輪の金メダリスト、清水宏保選手と同じ氷上に、私は選手として立っていた。Mウェーブに響きわたる拍手と歌声。平成11127日、第54回国体冬季国体の開会式が行われた。全国からの代表選手が、音楽隊の演奏に合わせて行進。リズムは1分あたり120歩、歩幅は65cmとの規定だ。やっぱり、マーチはこの速度でなくっちゃ。音楽は止まることなく、いろんな曲がメドレーで繋がる。「日の丸飛行隊」のジャンプが記憶によみがえる札幌五輪の「虹と雪のバラード」に続いて、長野五輪のテーマ曲「瞳の中のヒーロー」だ。憧れの清水宏保選手の勇姿が、眼前に浮かぶ。胸には熱いものがこみ上げてくる。

 この感動的なシーンに、自分の姿が重なる。思い返せば、1年前、清水選手の滑りに魅せられて、私はアイススケート靴を履いたのだった。スケートができる機会をさがし求めては、1111mのショートトラックの練習を始めた。少しさまになった頃、知り合いの勧めで1400mのロングを走ってみた。すると、国体出場の標準記録を突破することができた。南国徳島から、42歳で初めて国体出場。悪友からも冷やかされる毎日であった。よくぞ、ここまで来たものだ。我ながら、高ぶる感情を押さえきれず、目頭が熱くなっていた。

 出場種目は500mと1000m。    Go to the start。   Ready。  ゆっくりと上体をかがめる。スタートラインには7人の選手。緊張感がみなぎる。号砲までのわずかな時間が、何秒か、とてつもなく長く感じられる。「パーン」という音が全身を貫いた。

 スタートはぴったり。上半身が前傾し、ぐんぐん加速していく。北国の強者たちの筋肉の動きが肌に伝わる。ほとんど一直線に並んでいる。スラップスケートのぐらつきもなく、足と腰のバネも十分。足の動きの一つ一つを認識できる。心身ともに最高調だ。最初の8歩は2拍子でダッシュ。その後、次第に3拍子で滑走に移行しようとしたその瞬間、右足のブレードが、右側の選手に接触。バランスが崩れる。天井がぐるぐると回転、身体が氷上にたたきつけられる、頭の中が真っ白に。  ああ・・、転倒だ。  くやしくて、しかたがない。即座に起きあがり、すこしでも追いつこうと滑った。あとは必死。すでに他の選手達はゴールイン、私の予選落ちは確定的だった。だが、止めたくなかった。ひたすら目指したゴールは誰もいない。ゴールの瞬間には、不思議と口惜しさも何も感じなかった。やった・・・完走した。しばらくして我にかえると、拍手が全身を温かく包んでくれた。何ものにも換えがたい満足感。自分が求めていたものは形こそ違えたが、「これ」だった。1000mは、リラックスした滑りで、136秒と自己ベストを6秒短縮。予選は通過できなかったが、心と身体のコンデショニングもうまくでき、得るものは大きかった。現在、滑るたびに記録はどんどん伸びている。今後も体力が続く限り、スケート道に精進していきたいと思うこの頃である。

<日刊スポーツの記事>

   医師兼音楽家 板東さん 冬季国体スピードスケートに挑戦 徳島/ワルツで予選突破へ/27日から開幕 長野エムウエーブ/ワルツでスケートを・医師であり、音楽家である徳島市の板東浩さん(41)

 今月27日から長野冬季五輪スピードスケートの会場となったエムウエーブ(長野市)で開かれる冬季国体スケート競技に出場する。板東さんが氷の上を滑る時、いつも体の中には音楽があると言う。昨年の五輪で金メダルを獲った清水宏保選手(24)に触発されて、アイススケートを始めたマルチスケーターはリズムに乗った滑走で、予選突破を目指す。「健康もスポーツもリズム」が持論。(8分の6拍子で)

 板東さんは徳島大学医学部附属病院第一内科の医師であると同時に、音楽家でもある。70年には全四国エレクトーンコンクールジュニア部門で優勝、93年にも全四国音楽コンクールピアノ部門大学一般の部で優勝した。現在も心や体を癒す力をもったバイオミュージック(音楽療法)の研究や普及に力を入れるかたわら、様々な演奏活動を行っている。

「健康もスポーツも、その根底にはリズム(音楽)がある」というのが持論の板東さんは「私はフィギュアスケートは3拍子、アイスホッケーは2拍子、スピードスケートは8分の6拍子(ワルツ)だと思っている」という。つまりワルツのリズム刻みながら、氷の上を滑走しているわけだ。

 ワルツでスケートとー聞けば、なんとなく優雅(悠長?)なものをイメージする人が多いだろうが、競技者としての板東さんはかなりの本格派だ。もともとは車輪が縦一列に並ぶインラインスケートの第一人者だったが、昨年の長野冬季五輪スピードスケート500メートルで金メダルを獲得した清水宏保選手に影響され、昨年2月にアイススケートへ転向。4月の中四国地区ショートトラック大会(島根)新人部門でいきなり総合優勝し、11月に長野で行われた記録会で500メートル、1000メートルとも日本学生選手権のC級標準記録を突破。国体出場権を獲得した。

 練習は早朝の吉野川河川敷を利用して行われる。スケート(普段はインラインスケート)を履いての練習は1日30分程度だが、筋力トレーニングやイメージトレーニングなど練習メニューは豊富。「風呂場で素っ裸のままスクワットをしたり、出張先のホテルでイスやテーブルを肩に乗せてスクワットをしている」。毎日コツコツが板東さんのトレーニング法だ。

板東さんが出場するのは成人Bクラス(3542歳)の500メートルと1000メートル。冬季国体では北国の選手が強いが「なんとか予選を突破したい」と気合満々。南国・阿波のスケーターは音楽を胸にエムウエーブに挑む。

板東浩(ばんどう・ひろし) 1957年(昭和32125日生まれ。徳島市出身。現在は徳島大学医学部第一内科の医師で、専門は糖尿病などの生活習慣病。医学関係の著書、論文、エッセイなどを多数執筆。音楽家でもあり、現在、日本バイオミュージック学会四国支部支部長。演奏活動も行っている。35歳だった6年前からインラインスケート(ローラースケート)を始め、97年の全国大会(秋田県)16歳以上男子2000メートルスプリントで6位に入賞。昨年の同大会スラロームでは3位に入った。昨年2月からアイススケートを始める。徳島県在住。バイオミュージック:音楽で心と体を癒すバイオミュージックの研究をしている板東さんは、昨年、「春の小川」など日本の四季の歌を斬新なハーモニーでアレンジした曲集「日本の四季のうた <バイオミュージックから 斬新なハーモニーへ>」を音楽之友社から出版(1200円、ミニCD付き)した。心地よさを誘うゆらぎの理論により、これらの曲を聞けば心がリラックスすると言う。

 

 笑いと癒し

 かつての精神科の患者が名門医大に入り,その後「赤ひげ医者」として,米国医療に影響を与えている医師が実在する。その人は「パッチ・アダムス」。同名の映画が日本でも先日上映され,ご覧になった方も多いだろう。主役は,「ミセス・ダウト」や「ジュマンジ」,「フラバー」などでお馴染みのロビン・ウィリアムスである。「レナードの朝」では神経科医,「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」では精神科医など,医者役5回目の「はまり役」だ。

 精神科に入院中,パッチは同室の患者を笑いで癒し,自分自身の病気も治っていく体験をした。そこで,医者を目指し,医大に入学した。医学生時代,小児科病棟にもぐり込み,辛い入院生活を送っている子供たちを,楽しいパフォーマンスで笑わせて力づけた。映画に登場しているのは,実際に白血病で治療している子供達であり,眼が輝き,顔色がパッと明るくなるのは演技ではない。また,パッチは医学生ながら,郊外に無料診療所を設置し,多くの患者の相談にのったりした。しかし,数々の突飛な行動が,権威主義的な校風からはみ出し,彼は退校処分になりかけた。州の医師会の公聴会が開かれたが,医療にかける真摯な熱意,抜群な学業成績,患者や家族,医療従事者の支援などにより放校は免れた。医師会幹部は,将来,パッチにより米国医療が改革される可能性に期待したのである。

 実は,私はパッチ・アダムス本人と面談をしたことがある。運良くECFMG資格(現在のFEGEMS資格)を取得でき,198586年にミシガン州で,family practice residency programで臨床研修していた時のこと。パッチ・アダムスが招かれ,医学生と卒後レジデント対象の講演会があった。彼は,ネクラだった青年時代や、精神病院での体験,医学生の時の出来事,現在行っている新しい医療の方向性と実践活動について,ユーモアたっぷりに紹介した。笑みを浮かべて言葉を選びながら語る彼の暖かい人間性が,ひしひしと心に伝わってきた。理想郷(ユートピア)を目指したGesuntheit*という診療所は,彼が企画運営をしているのだが,次第に,多くの人々が集まり,手を差し伸べてくれるという。

 パッチと一緒にいると,ホッとするような気分になるのはなぜだろう,と考えてみた。私の目をじっとみて,微笑みながら話しかけてくれる。初対面ながら,私という一個人に興味を持ち,私を知りたいという意識が感じられる。私が言ったことを,ぐっと受けとめてくれる。私がうまく英語で表現できないことも,彼が言葉に顕わしてくれる。ウィット豊かな会話の根底には,彼の優しさが見え隠れする。それも,「笑い」というオブラートに包まれた言葉のキャッチボールなので,とても楽しかったのを,昨日のことのように覚えている。

 さて,近頃,私達の身の回りで,「笑い」が少なくなってきていないだろうか。昨今の日本は,リストラの嵐が吹き荒れ,失業率も最悪の数字である。仕事に駆け回る父親は,家庭でも権威はなく居場所もない。母親も,不平不満が自然と口をついて出てくる。このような家庭では,家族のコミュニケーションは損なわれ,子供たちもいつもイライラ状態だ.学校に行っても,すぐにむかついて,切れてしまう。心がすさんで,学級崩壊などの問題も出てきている。青少年が,以前には考えられなかったような事件を起こす時代になりつつある。

 かつて,日本の家庭像はちゃぶ台に象徴され,贅沢ではないが,暖かく潤いがある家庭。お父さん,お母さんの微笑みの中で,子供が癒されて育ってきた。しかし,個人主義と自由がはき違えられ,社会は大きく変容をとげた。安易で楽しいことがいつでも身の回りにある。例えば,飛躍的な発展を遂げたファミコンのソフトや画面は,誠に素晴らしい。反面,ゲームで育った子供たちは,自分の都合が悪くなればスイッチを切り,セーブしておけば,またそこからスタート。キャラクターが死んでもすぐに生き返る。読むものはゲームの攻略本で,努力や工夫をするのではなく,抜け道のテクニックを調べることこそが,上達の道なのだ。友達と競いあって,うまくなると,自分自身が強く偉くなったという錯覚に捕らわれる場合もある。仮想現実の世界で住み,次第に人とうまく関わることができなくなってきたのではなかろうか。

 この異常とも言える,ギスギスした社会を治し,癒すには,思いやりの気持ちや空気が必要だ。それには,笑いが一助となるだろう。高座に足を運び,落語の生の声を聞きながら笑っていると,おおらかな気持ちになる。笑いの効用については,近年,医学的にも研究がすすんでいる。天然の鎮痛効果をもつエンドルフィン分泌や,リンパ球の4/8比にみられる免疫能の上昇などがみられる。医学生を対象とした実験で,30分間叱ると免疫能が低下するが,30分褒めると免疫能が上昇するというデータもある。時には,ガン細胞が縮小する場合もあるようだ。笑いは,心を暖かくし,人間関係を円滑にする。相互のコミュニケーションもよくなるだろう。笑顔で人を癒すというのは,だれでも簡単にできることなのである。さて,話は戻るが,パッチの講演会に合わせて,「コミュニケーション技法」のワークショップもあった。サブタイトルは,「いかに教え,いかに教えてもらうか」である。米国の医学教育では,スタッフシニアレジデントジュニアレジデント医学生という構図で,お互いに教え,教えられ,研鑽を積んでいく。いくら,知識や技術がある医者であっても,うまく指導できない人はだめである。後になって「教え方が適切であったか」というアンケートで,厳しい評価が下される。そうなれば,良いプログラムに入れないし,良い病院にも勤務できない。教師が教え方の質を学生にチェックされるのは,決して稀ではなく,ごく自然な評価方法なのである。

 例えば,上級生が下級生に注射方法を教える場合を考えてみよう。まず,ほめて,次にアドバイス,最後にほめる,のが良い。「なかなか注射が上手だな」「しかし,この針の角度がだめだ。もうすこし,斜めにしなさい」「全体的にうまくいってる,その調子でKeep going」という具合だ。もし,逆に,やる気をなくすようにしたいときは,次のようにする。まず叱り,次に誉めて,最後にけなす。「なんだ,その手つきは」「この前に上手に注射ができたのは,偶然にうまくいっただけか」「やっぱり,君は医者の素質がないんじゃないの」。驚くことに,教える側と教えられる側の両者が同席している所で,このような講義が行われる。日本なら,教師と学生を一緒にして,教育方法の上手下手を論じるなど,難しいだろう。

 以前に私は,シドニーにあるWHO医学教育センターで,医学教育に関する3週間のワークショップを受講したことがある。その中で感銘に残ったことは,教育手法の3ステップだ。まず,1回目は先輩の手技を見る,2回目は自分でする,3回目は示して後輩に教える,というもの。すなわち,SeeDoShowである。

 今回の映画をみて,パッチに対する理解がより深まったような気がする。いつのまにか私を虜にした彼の魅力は,精神科や行動科学でのコミュニケーション技法といった,マニュアルに沿ったものではない。彼は,人間自体が好きなのだ。彼は新しい友人と出会うと,お互いを理解するために,数時間にわたっておしゃべりをするという。こんなに超多忙な人が,どうして,そんな優しさで,時間を割くことができるのだろう,と不思議に思った。優秀なひとは,心に余裕があり,人に優しくできるであろうか。彼は,単なる医師だけでなく,逆境をのりこえてきた自信と懐の深さを兼ね備えた,人生の達人でもあるようだ。

 私が日本に帰国してからも,NewsletterGesuntheit」を定期的に送ってくれていた。だから,なおさら,今回の映画をみて,彼の活動がこんなに認められ,とても嬉しかった。パッチは,12年間,町医者として15万人を越える患者を無料で診療にあたってきたという。現在,Gesuntheit Institute(お元気で病院)を建築中で,1000人以上の医者が参加を申し出ているとのことだ。確かに,米国の医学・医療のレベルは高いが,患者が求め理想とするような医師は容易に見つからないと言われている。今後,さらに,パッチの活躍がブレークスルーし,米国医療の変革を期待するとともに,我々内科医の日常診療についても,いちど考えてみたいと思う。

参考 * Gesuntheit:ゲズントハイト,ドイツ語で,健康,滋養の意味。ドイツだけでなくアメリカでも,健康を祝して乾杯する時などにも,この言葉を使う。

 

 「間」の魔力

 夏の甲子園,今年も熱い季節がやってきた.8月7日の開会式.新潟明訓高校・今井也敏主将の選手宣誓は,まさに素晴らしい,という一語に尽きた.全国の津々浦々にまで,爽やかな風が吹きこんだかのようだった.自分の言葉で表現した内容,話し方,表情に,感動した人も多いだろう.静かに淡々と心に語りかけるような口調であっても,野球に対する心意気や情熱が,私達の心に脈々と力強く響きわたってくる.この120秒は,必ずや,歴史に残るスピーチの一つとなるだろう.野球における数字の記録としては残らないが,人々の記憶にずっと残るに違いない.

 私が彼の選手宣誓に特に感銘を受けたのは,「間」の取り方である.彼の話し方をよく聴くと,言葉と言葉の間には,少し時間的空白がある.そのタイミングがまさに完璧なのだ.一つ一つの文節や文章ではなく,意識しなくても,全体のバランスがパーフェクトになっているようだ.彼には,デジタルではなくアナログ的で,かつ,芸術的な感性が備わっているのだろう.彼の仕草や歩行をかいま見ただけでも,彼の身体に内在するリズム感は抜群と感じられた.バッティングの際には,直球はもちろん,タイミングをずらす変化球にもついていけるだろう.守備の際には,いつでも打球の正面に行くという従来の守備理論ではなく,時にはゴロのリズムに合わせ,左右に自由自在に動くという近年の理論もマスターしているだろう.彼はショートと守っているとのことだ.まさに,守備の要(かなめ)で花形である.彼のステップを見る前から,軽やかなリズムとフットワークによる華麗なプレイが予想され,イメージが膨らんでしまった.

 甲子園の到来とともに,実は,私の身体からも内側から燃えたぎってくるものがある.というのは,大学時代,白球を追う日々が,私の青春だったからだ.「練習中は絶対水を飲むな」,が常識の時代.炎天下でフラフラになりながら練習していたのを思い出す.夏の合宿では,ご飯が喉を通らず,水にペットシュガーを溶いて飲んでいたものだ.このグラウンドで僕は死ぬかもしれない,と何度も頭をよぎったものだ.ある試合では,グラウンドの温度は40度を越えて,風はなく,まさに灼熱地獄といったこともあった.いろんな苦しいこともあったが,大好きな野球をしていることが楽しかった.

 私は小柄で非力のため,長距離バッターにはなれなかった.しかし,眼がよくて器用だったので,2番を打っていた.大きな当たりは少なくても,四球でも塁に出て盗塁すれば二塁打だ.私は粘りのバッティングを身上とし,三振は少なかった.ある日,バッティング練習で,先輩が「固め打ちをするから,よく見ておけ」と私に言って,連続して何本も得心の当たりを飛ばした.私も先輩を真似て,「片目打ち」をしてみたが,両目の時よりもうまく打てない.なぜ打てないのだろうかと,悩んだこともあった.私の守備は二塁手.セカンドの守りはとても難しい.ランナーがいる場合,微妙な状況の違いによって,二塁へ走ったり,一塁ベースに入ったり,一塁後方へカバーに回ったり,前にダッシュしたり,後ろへ中継に走ったり,チーム内で一番頭が良く,臨機応変に対応できる選手が守るべきポジションなのだ.しかし,私の場合は,いつも逆に走るという特技を持った迷選手であったのだ.

 「この迷選手の出現は,歴史的観点から鑑みて,以前から予言されていた?」ということを,皆さん,信じられるだろうか!人気漫画「ドカベン」をご存じであろう.高校生の時,愛読していた.野球を知るには,まず「ドカベン」をお勧めしたい.個性的なナインがそれぞれ役割を果たしている.優等生の里中が投手,山田という捕手がドカベンで,サードには熱血漢の岩鬼.そして,殿馬(とのま)という二塁手がいる.小柄で,ピアノを弾き,秘打「白鳥の湖」という,極意のバッティング技術を持つ.私は小学生の時から「抜き打ち打法」を真似するなど,いろんなバッティングにトライし,工夫を重ねていた.まさに,私と殿馬は酷似している.トンマな所も,ぴったりだ.

 卒業後も私は野球を続けており,18歳から始めた野球は24年目となる.現在,8-10チームが所属する草野球リーグで,1番センターを務めている.30歳から始めたスイッチヒッターがようやく花開き,運良く,首位打者3回,連続4年4割などの成績を残すことができた.もっとも,私は結果を求めているのではなく,毎日すこしずつの練習のプロセスが大切であり,継続こそが私の信条.坂道ダッシュのおかげで,ずっと走塁の速さは変わっていない.また,試合前の準備運動には半時間以上かけ,中途半端なプレイはせず,集中力を高めることで,24年間,擦り傷以外に大きな怪我はしたことがない.これは,大いに誇れることと自負している.

 さて,翌8月8日は特別の日で,徳島の夜の街はフィーバーした.毎年2月と8月の第一日曜に行われている「徳島ジャズストリート」が,開催されたのである.地方で続いているジャズフェスティバルとしては12年目となり,全国に誇れるものだ.今回は9つのライブハウスを会場とし県内外から26バンドが参加した.共通チケットでどこでもフリーパスだ.私は,Dr. B & Brothersというジャズバンドで,以前から出場させて頂いている.ニューヨーク本場のジャズのような高いレベルの演奏はできないが,トークやスライドなど盛りだくさんなパフォーマンスにより,どうにかカバーしている.曲目はジャズやブルースにこだわらず,ハワイアンやポピュラー,映画音楽などジャンルは広く,皆さんに喜んでもらえるステージを目指している.

 今回は,本四架橋開通記念事業として,神戸からプロのジャズメンが招待されていた.彼らの演奏は素晴らしく,特にアドリブは,まさにぴったりはまっている.メンバーがお互いに会話を楽しんでいるように,音楽をツールとしてコミュニケーションしているのが,ビンビンと伝わってくる.アドリブのフレーズとフレーズの間の空間,楽器と楽器の間の空白など,その「間」がちょうど頃合いなのである.一方,私のアドリブは音のみが多くて,間が悪く,間が抜けている.まだまだ初心者で,すもうで言えば,土俵に上がれるかどうかという未熟者だ.音がない空間こそ重要であり,空白があるからこそ旋律がきわだち,サウンドの意味が倍加するのである.音符がない空白の「間」にこそ,次にはどんなアドリブがやってくるのか,という期待感で,私の心の中には,イマジネーションの世界が大きく広がってくる.

 今年初めにさっそうと登場した弱冠16歳の少女・宇多田ヒカル.シンガーとしても凄いが,彼女のソングライターの才能には驚くべきものがある.新しい感性で,英語の詩に,これ以上ピッタリ合わせられないというほどの旋律やリズムがつく.「間」の取り方などは,天才と評する人もいるほどだ.よく知られているR & R(ロックンロール)は高い音域でテンポが速く,時には絶叫などもある.一方,ヒカルの音楽はR & B (リズム・アンド・ブルース)という範疇に属する.音域が広く低音の魅力が十分に表現される.リズムセクションを強調したスローないしミディアムなテンポのラブソングが多いことが特徴だ.もし,甲子園の選手宣誓に例えれば,R & Rは従来のパターン,R & Bは今回のにあたるだろうか.

 最後に,漫画の話に戻るが,「ドカベン」に登場する高校の名前は「明訓」.偶然の一致ではなく,新潟明訓をモデルとして,水島新司先生が書き下ろしたものが「ドカベン」なのである.単行本では48巻にもなる.渥美 清さん演じる「寅さん」の映画も全48作で,いずれも,歴史に残る名作となろう.かつて,甲子園で「ドカベン」として名を馳せた香川伸行選手は南海(現ダイエーホークス)に入り,パリーグで打率のトップに出たこともある.香川選手は,体型は太めだが,腰がよく回って内角球も上手に打ち,走るのも速かった.浪商出身であるが,徳島で生まれ育ったこともあり,徳島県民も応援していた.徳島は,徳島商業を甲子園で優勝に導いた板東英二(中日タレント)をはじめ,池田高校を連続優勝させた畠山準(南海横浜),畠山の1年後輩の水野雄仁(巨人解説者)などの選手を輩出しているのだ.

 彼らのような名選手がプレイをしている時に,注意深く観察すると,間の取り方がとてもうまい.私も,長年,野球に携わっている中で,そのコツがわかりつつある.近い将来,プロ野球のドラフト会議に,徳島から「殿馬」(私)という名前が挙がってくるかもしれないので,期待しておいてほしい.

 

 密室の熱い恋

 ハンガリーの首都,ブダペスト.この街は,西のブダと東のペストが併さったもので,中央にドナウ川がゆったりと流れている.歴史的には,オーストリアと密接な関係があり,ヨーロッパを統治した女帝マリア・テレジアはハンガリー王女でもあった.ハプスブルグ家のシェーンブルン宮殿が参考とされ,同国最大の地主であった名家のエステルハージ宮殿が建てられた.ここで,音楽家ハイドンが指揮者として,大作曲家リストの実父が宮廷音楽家として務めていたのである.

 私は憧れのリスト記念館を訪れた.リストの肖像画を目の当たりにすると,気品あふれた品格と情熱的な瞳が,私の心を打つ.女性との愛を貫き,彼の人生は自由奔放にみえる.しかし,音楽家を育てて多くの人々を援助し,社会に大きく貢献した.信頼が厚く,晩年には音楽学校の校長も兼ねたほどだ.書斎にはお洒落な調度品が置かれている.3オクターブの鍵盤がついた机で,無音の鍵盤に触れながらリストは五線紙にペンを走らせたのであろう.一流好みであった彼のこだわりが,私たちを優美な世界に招いてくれる.

 ロマン派のリストは,常に心にロマンを持ち,ロマンに満ちた人生を送った.マリー・ダグー夫人をはじめ,4人の女性との情熱的な恋によって彩られた彼の人生.彼の愛は誰に対しても真剣であった.だからこそ,あれほど人を感動させるラブミュージックの名曲「愛の夢(The Dream of LoveLiebestraum)」を作曲できたのだ.この曲は,私にとって思い出深い.私は中学生時代,ピアニスト・作曲家の道を示したことがある.しかし,中央のレベルははるかに高く,その壁はなかなか破られなかった.そのような悩みの中,ふと耳にしたこの曲が私の心を捕らえたのだ.これが,甘美な「愛の夢」との出会いであった.

 以来,大好きな曲の一つだが,歳を経るたびに新しく発見するその深さとメッセージ.この曲が,プロにならずとも音楽を愛する私の心を開いてくれたのである.ところで,「愛の夢」は,高貴な愛,至福の死,愛しうる限り愛せ,の3つの歌曲をピアノ曲用に編曲したもの.夜想曲IIIIIIとも命名されているため,ショバンのパロディーだとも言われている.

「愛の夢第3番」は,5分ほどの小曲で緩急緩の三部形式から構成されている.ムードのある官能的な調べのプレリュード.中間部は次第に盛り上がってエネルギッシュでエキサイティングな情景でクライマックスを迎える.そして,幸せを感じつつ「愛の夢」をみながら一緒に眠りにつく,という夢物語が感じられる.私は,最近,国際学会でピアノを弾くことがある.本曲を演奏するときは,上に述べた少しエッチな内容を,英語で上品に(?)説明しながら聴いてもらう.愛に国境はなく,内容が理解できるようで,拍手喝采を頂いている.

 さて,ブタペストで滞在中,ホテルのフィットネスクラブに足を踏み入れた.私は旅に出ると,健康の維持増進のためにスクワットを行って足腰を鍛え,そのあとサウナに入るのが楽しみである.受付で,「よろしければ,サウナだけでなく,スキンケア,ネイルケア,マッサージなどもご利用・ご用命下さい」とのこと.男性でも,女性と同じく,コスメティクスをするようだ.

 数人で満員となる小さなサウナで汗をかき,水風呂に浸かっていた.すると,スタッフが一人の女性客をつれてきて,私の真ん前で,クラブの利用法を説明し始めた.バスタオルは濡れないように,すこし離れた台の上.私は素っ裸のままで水の中.裸の男性が前にいるのに,まったく気にしない様子だ.でも,私は気になるので,水から上がりたくても上がれない.水の音をたてても,一向に気にもとめない.ひたすらじっと耐えて待った.おかげで,私の身体は芯まで冷え,顔は恥ずかしくて赤くなり,散々な1日目であった.

 翌日もトレーニング後,サウナ室へ.なお,サウナ(Sauna)はソーナと発音すれば,世界中どこでも通じる.小さなサウナで上の段に座り,一人で汗をかいていた.そこへ,「ハロー」と,二十歳くらいの見目麗しい女性がバスタオルで胸まで包み込んで入ってきた.抜群のプロポーションで,ナイスボディ.肥満や糖尿病が専門の私としては,職業柄,条件反射のように観察し分析してしまう.瞬時に標準体重より15%ほどスレンダーだな,と診断していた.彼女は上の段に登り,私と対面するように腰かけた.自然と世間話が始まることに.市内に住み,週に12度来るという.「ヨーロッパのサウナは摂氏70度ほどでゆっくり楽しむが,日本のサウナでは約90度だ.日本人はせっかちだから,より熱く短時間タイプなのだ」,などと話をしているうちに,次第に打ち解けてきた.

 すると急に「このほうが気持ちいいわ」と,乳房を包んでいたバスタオルをひらりとゆるめ,タオルは腰部の一部分だけになった.予想しない展開に私はびっくり.目はちかちか,頭がのぼせ,喉が渇いてきた.しかし,全く気にしないという素振りをして,そのまましばらく会話を楽しみながら,二人は熱い関係を続けていた.すると,彼女は「そろそろ出る時間だわ」と,上の段から降りてこようとした.その時,少女のように無邪気に,タオルがひらりとひるがえり,全身があらわになった.芸術的な美しさ.かわいい仕草で床の上に降りてから,ゆっくりとバスタオルをまきつけて,「それじゃね」とシャワーを浴びに出ていった.私の身体も心も熱くなり,まさしく「愛の夢」の2日目であった.

 部屋に帰って考えた.この健康的な爽やかさは不思議だ.男女一緒にサウナに入るのは,ごく普通の慣習.誰も気にしていない.目的はあくまで健康のため.サウナやスキンケア,ネイルケアなど,性差はないのだろうか.また,欧州では,人間の肉体の美しさを絵画や彫刻などで表現してきた.裸体像は至る所にみられ,宗教的な文化もあり,子供の頃から違和感を感じないのであろう.一方,日本では,儒教的,道徳的な観点から,ややタブー視してきたことも否めない.小学生の頃,そのような画像に出会い,恥ずかしいと感じた読者も多いだろう.さらに,恥ずかしいこと(shy)と,恥と感じること(ashamed)について考えた.これは本来,根本的に違うものだ.東洋人が褒められると,「嬉しいけれど,はにかんで恥ずかしそうにする」ことがある.この態度や仕草は,欧米にはみられないという.しかし,日本では両者で,同じ「恥」という漢字が使われている.名誉なことで褒められるのに,なぜ恥(はじ)という漢字が使われるのだろう.漢字文化の日本においては,いつの時代からかは不明だが,両者が混同されてしまった可能性がある.ブタペストは,健康とレクリエーションの場として有名である.街の地下からは温泉が吹き出し,遠い昔からケルト人,ローマ人,マジャール人が風呂を作り,医学的効果を発見した.風呂といっても,日本の「銭湯」とはずいぶんと違う.お湯に浸かるのではなく,蒸気風呂なのである.身体を暖めたあとには,専門の職人がアカスリをしてくれるのだ.これが温泉療法や海洋療法へと発展していくのである.

 さて,2日目にはとても楽しい思いをしたので,3日目には,朝6時から意気揚々とサウナに出かけた.「今日はどんなアバンチュールがあるかな」と,サウナに入ろうとしたとたん,突然私の目の前に全裸の女性が,サウナ室から飛び出してきた.瞬時に,40歳台の標準体重+35%ほどのオバタリアンと診断.すると不思議なことに,私の瞼は反射的に閉じられた.「服を身につけるから外へ出ていって」と言う.わざわざサウナ室から出てきて,服を着るから人を追い出すとは,矛盾した話だ.それにしても,視診で全身像を観察したはずだが,髪や瞳の色など思いだそうとしても記憶に残っていない.昨日は麗しい女性のデータが,一瞬のうちに大脳にインプットされたのに,本日は大脳への入力がブロックされた様子.いつも沈着冷静であるべき科学者として,この対応はダメである.医者たる者,いつ何時においても,ウィリアム・オスラー先生の「平静の心」を持たねばならない,と反省した次第であった.

 精神分析学的には,「昨日と同様の楽しい出会いを無意識に期待していたが,まったく逆の現象に遭遇したので,このような反応を起こしたのだろう」と,解析できる.まだまだ心の修行が足らない私を再認識した.何はともあれ,ハンガリーの歴史や文化に触れ,音楽で気持ちよくなり,サウナでも気持ちよくなった良き旅であった.

 

 東洋の神秘

2000年初春、私は銀座の歌舞伎座にいた。37年ぶりに新橋演舞場と2会場で、歌舞伎大舞台の公演である。壇浦兜軍記のステージでは、坂東玉三郎と中村勘九郎が共演。善人は白い顔、悪人は赤ら顔と、一目でわかる演出だ。日本の伝統文化に触れようと、外国人の姿も少なくない。

遠い昔、人間の感情表現として歌や踊りが生まれた。本邦では「魏志倭人伝」に2-3世紀に歌や踊りがみられたと記され、呪術や農耕儀式を中心に発展。平安時代に空海、最澄が伝えた密教の声明(しょうみょう)が、日本の歌い物や語り物の原型となった。声明の一種である御詠歌を聞くと、まさに演歌と感じる。日本の歌の元祖はお経なのだ。江戸時代には三味線が普及し、1603年にかぶき踊りが興行を始め、歌舞伎が誕生。創始者は「出雲の阿国(おくに)」で、昨年同名の演劇で浜木綿子が熱演し、楽しませて頂いた。

歌舞伎は基本的に音楽劇である。舞台の下手の黒御簾(みす)で、下座(げざ)音楽が演奏される。唄(歌)や舞(踊り)に合わせるほかに、幕開き、雨音、足音、幽霊につくドロドロなど心理的な効果も演出。日本の音楽は、歌いと語りの総合芸術として発達してきたのが特徴だ。言葉と音楽を分離せず、一体にとらえてきたのである。

さて、歌舞伎の言葉のごとく、歌って舞いながら、ピアノを演奏する大ピアニストをご存じだろうか。かの有名なグレン・グールドである。演奏しながら、ハミングどころでなく、はっきり聞こえるほどの声で唸りながら歌う。片手が空いていれば、かならず手を振り指揮をしながら演奏するのである。ハンチング帽子と手袋をいつも身につけ、とても低い特製の椅子で弾くというエピソードでも良く知られている。グールドはカナダの天才ピアニスト。当時、新しい解釈・斬新な演奏で音楽界を揺り動かし、バッハのゴールドベルグ変奏曲はベストセラーとなった。ニューヨークで住めば、人気沸騰しただろう。しかし、コンサートを拒否し、静かなカナダの郊外で暮らし、主にレコード録音を行った。図書館で音楽のコーナーに足を運ぶと、彼を研究した多くの書籍が所狭しと並んでいる。というのは、彼にまつわる多くの謎があるからだ。

その解答のひとつが、このたび本邦で公開された映画で明らかになった。「グレン・グールド/27歳の記憶On the Record, Off the Record(1959年、カナダ)である。録音風景と舞台裏を集録した前半と、自然豊かな郊外で暮らす生活やインタビューの後半とで構成されている。

天才グレン・グールドは、衆目の前でコンサートを行うよりは、長い時間をかけて最良のものを生み出す録音を好んだ。言い換えれば、舞台において、華麗なプレイやステージ栄えを追求するのではなく、自分をみつめる録音を選んだのではないだろうか。彼は都会に住まず、自然と共生する毎日だった。人と会うよりも、電話を好んだ。これらの事から、間接的な交流を好み、芸人ではなく職人かたぎ的な価値観を持っていたと私は推察している。孤独を愛し、映画は好きだったという。しかし、他人の演奏会に行くのは、気が進まなかった。その理由を、彼は「何よりも、演奏家の心理が手に取るようにわかってしまうので、他人の演奏会では、ひどく落ちつかなくなります。自分の演奏会よりもはるかに気を揉むのです」、と述べている。

実は、私はこれに近い不思議な体験をしたことがある。36歳の時、24年ぶりにピアノコンクールに出場し、四国大会で大学・一般の部8名で競演した時。他の7人の演奏と動作をみていると、心のあせりや動揺している状況がびんびんと私に伝わってきたのである。これに遡ること約3カ月、コンクールの準備を始めたが、大学卒業後は多忙な生活のため、ほとんどピアノを弾いたことがない。鍵盤に触れる時間は十分取れず、車の中でCDを聴きながら考えることが主な練習方法であった。課題曲はショパンのエチュード「大洋」。1秒間に12個以上の音が洪水のように重なりあって押し寄せ、大きな波、小さな波を表現する曲だ。テンポが速すぎて1つ1つの音は聞きとれず、演奏者は何を伝えたいのか、まったく理解できない。CDによって解釈は千差万別で、表現は全くばらばら。頭の中は霞(かすみ)がかかり、暗中模索。また、楽譜を穴があくほどじっと眺めて、なぜショパンはこの音符をここへ入れたのか、を熟考する日が続いた。神経を研ぎ澄まして集中するため、疲労困憊する苦しい心の修行だ。

ずっと考え続けてしばらくたった時、何か悟りが開けたような不可思議な心の状態になった。今まで聞こえなかったすべての音が手に取るように分かる。バラバラだった各演奏者の表現は、根底ではすべて共通しているのだと感じた。一歩一歩山道を登っていて、あるときふっと雲の上に出てきた時に下界をすべて見渡せるように、頭の中の霧が次第に消えて晴れ渡り、すべて見通せる、聴き通せる、という気持になったのである。すると、他の人が演奏しているのを脇からみると、不思議とわかってしまったのだ。これを医学的に分析してみよう。人間の五感、特に視聴覚は、防衛反応のためか、通常はブレーキがかけられている。ふっと居眠りした数秒の間に長い物語の夢をみることがある。高所から飛び降りたり、交通事故に会ったりすると、あっという間の瞬間であるはずだが、ものすごくゆっくりと感じられ、走馬燈のようにすごい速さで頭脳が働くのがわかる。

野球の中継映像ではどうなるか。通常のフィルムは1秒間に数十コマだが、ピッチャーが送球する瞬間には、1秒間に数千コマを流す。だから、スローモーション映像でゆっくり観ることができるのだ。人間は、何かに集中したり、危機(クライシス)に面したり、神様からインスピレーションを受けたりするときなどには、このようにものすごい速度で頭脳が回転し、潜在能力が活性化されるのではないだろうか?

さて、話は戻るが、大作曲家からインスピレーションを受けていたと思われるグールドは、自らの演奏をdetachment(離反、距離をおくこと)と評した。悲しいときには気が済むまで泣く。嬉しい時には思いっきり喜ぶ。これは心身の立場からみると健康的だ。しかし、我々の感情たるものは、それほど単純なものではない。悲しくても笑ったり、おかしくても泣くこともある。自身の複雑さに気がついておらず、感情的になると盲目的になってしまう。あたかも作曲家と感情を交わらせたかのように、過剰にセンチメンタルな演奏は、決してロマンティックとは言えない。感情から、自分をすこし距離を置く。過度に感情移入をせず、喜怒哀楽からすこし突き放し、傍観者として眺めてみる。これを夏目漱石は「非人情」と記した。不人情ではなく、非人情である。夏目漱石の「草枕」を愛読していたグールドは、漱石から少なからず影響を受けたのだろう。

音楽療法の歴史から2人を紹介しよう。数学者のピタゴラスは音楽家でもあり、心をいつも平穏にできる音楽を作曲し、弟子に聴かせたという。これは「心頭滅却すれば火もまた涼し」という心を無にする仏教的で東洋的な考えだ。一方、アリストテレスは西洋的で、嬉しいときははしゃぎ、悲しいときは泣くと、カタルシス作用で心は浄化されると説いたのである。グールドは執筆に忙しく、ラジオ番組で草枕を朗読したり、ラジオ・ドキュメンタリー制作を行うなど、新たな次元での創作活動も行っていた。音楽だけでなく広い教養を持ったグールドは、西洋よりも、むしろ東洋的な文化や価値観、美学に憧れていたのではあるまいか。彼は50歳で黄泉の国へ旅だったが、今もなお、音楽を含めた芸術の研究活動をしているだろうか。1972年、地球外生物に向けて、人類の遺産を積んだパイオニア10号が打ち上げられた。この中には、グールドの演奏も納められている。天才グールドという小宇宙から生まれた音楽は、現在もなお、大宇宙の中を飛び続けているのである。

さて、このたび、平成121月下旬には、市川猿之助が演じた斬新なスーパー歌舞伎「新三国志」の受賞式が行われた。義理人情をからめた大スペクタクルの脚本・演出に感動したのを覚えている。私は最初のスーパー歌舞伎「ヤマトタケルノミコト」を見てから大ファンとなり、進化しつつある舞台が楽しみである。世の変化にうまく対応できるのは日本人の特質だ。これからも、歌舞伎の発展や、日本文化の世界に対する影響を期待したい。もし、グールドが今ここにいれば、猿之助と同じ試みをしていたかもしれない。

 

 子育ての「へそ」

 へそを出した子供達が戯れている.なわとびや長縄(ながなわ)で遊んでいる子,跳び箱からマットに身を投げ出す子など.3歳の子もいれば小学生高学年の子もいる.ぶらさがったり,逆立ちしたり,ボールを投げたり蹴ったり.みんな,キャッキャッ,ワーワーと楽しんでいる.これは学習塾ではなく,体育塾「ネーブル」でのひとこまだ.ところは群馬県渋川市.日本のちょうど真ん中に位置し,「日本のへそ」として売り出している街.そういえば,へそはドイツ語ではナベルで,果物のネ-ブル(navel)にもへそみたいなところがあったっけ.体育塾の指導は興味深い.長縄跳びは,入って,跳んで,というタイミングが難しい遊びだ.マスターするコツは,歌わせてリズムを取らせること.うまく入れれば,1回旋2回跳びを教える.次の段階は1回旋1回跳び.このリズムを身体に覚え込ませるため,「郵便屋さんの落とし物・・1枚,2枚・・」と歌わせて,床に手をつかせるのだ.このリズム感が,なわとびの二重跳びなど高度な技術へとつながっていく.これは,昔なら「音体」という音楽と体育を一緒にしたものだ.まさに,音楽運動療法を実践していると言える.

 音楽があるとステップを踏みやすい,と言われている.それはなぜなのか,音と運動について少し考えてみよう.まず,五感の中で聴覚は,タイミングを掴まえるという点でもっとも鋭敏で優れている.だから,陸上の短距離のスタートでは,光よりも音を用いるのだ.そのほうが,反応が速いからである.次に,一定のリズムの音があると,うまく歩けることがわかっている.脳卒中患者のリハビリで,歩行練習をする際には,音や声かけがあると格段に違う.その理由は,一定間隔の音を聞くと,筋肉は収縮する前からその準備のために緊張できるからだ.これは神経筋同調法という医学的理論で,「聴覚リズムによる筋運動準備過程」と呼ばれる.以上より,リズミカルな聴覚刺激に合わせて動くと,我々の筋肉はリズムに同調してうまく興奮できるのである.動きのタイミングが向上し,動作のぎこちなさがなくなると,いろんなスポーツに習熟することができる.

 さて,子供たちを指導しているのは,社交ダンス師範で耳鼻科医の父を持つ小松秀司氏1)である.スケートを父から学び,大学時代には全日本レベルで活躍し,国体にも数多く出場.長年教師として学校で体育を教えながら,県のコーチとしてスケート選手の育成に関わってきた.小松氏は現在,小中高校生のスケート選手を育てている.1年の半分は毎日スケートリンクに送り迎えし,自分の子供のように面倒をみている.すでに全国レベルの子供も育ち,将来オリンピック選手が出てくるかもしれない.スケート専門の学校やクラブで鍛えられた選手達に負けない理由を,私なりに分析してみた.

1)幼稚園のころから体育塾で面倒をみて,子供達の運動神経や性格を熟知している.スケート競技は苛酷で孤独である.まず素質をある程度把握しておかなばならない.

2)子供の体調や都合を聞き,決して無理強いをしない.だから長続きする.これはピアノなど長年にわたる音楽の修練にも共通するものだ.

3)選手,教師,コーチの経験があり,正しい路線にそった方法がとられている.

4)室内トレーニングでは,自転車漕ぎも行なうが,これで最大筋力や中等度筋力のパワーが測定できる.この記録は長年にわたって,各自のチャートに残されている.進歩の状況は子供自身がよく理解しているので,今がんばらなければ伸びないと自覚できる.

5)必要な際にはプロテインを摂取させ,栄養学的な配慮も欠かさない.少人数のために,長期的視野できめ細かい指導ができる.

それではスポーツ医学の観点から,3名の子供の3年間の経過をみてみよう(図1).

 Case 1は中学2年の女子.身長が20cm伸びた3年間に,除脂肪体重は1.5倍に,無酸素パワーは2倍に増えた.特徴は1年通じてコンスタントな成長.インラインスケート全国大会では一般女子部門で優勝.くやしいけれど筆者より速く滑走するのである.Case 2は中学3年男子で長距離専門.筋力は秋から冬にぐっと増えるが,春から夏は増えない.この半年は学校の陸上クラブで走っており,いつも筋肉が疲れ気味であることが推察される.Case 3は中学3年男子で短距離専門.県下の有力なスケート選手の一人で,*の期間に県下の合宿に参加した.いきなり重いウェイトトレーニングを実施して腰を痛めたため,パワー値が減少.その後は幸いに回復し,県のジュニアチャンピオンに.しかし,グラフの伸びからみて,数年後のパワー値やスピードスケートでのコンマ何秒という僅差のタイムには影響があるだろう.選手が大人の場合はアドバイザーとしての責任は小さいが,選手が子供の場合には,指導者の判断ひとつで選手の将来性が大きく変わる.詳細に研究し責任をもった指導が望まれる.

 ところで,近年,従来考えられないような子供の事件が多発し,心の健康や教育について議論されている.先日,子供の身体について,「もはや生き物としても危うい体で国家的危機だ」,という記事2)を見つけた.テレビゲームに没頭するなどが原因で,運動不足になっている子供に様々な障害が起こっている.背骨のゆがみ,股関節の痛み,足底の不発達,背筋力や持久力の低下,視力異常,低体温児,高体温児,血圧の調節異常などが挙げられている.

 子供の心と身体は未成熟であり,愛情がこもったケアは親の責任である.お母さんのお腹のなかで,胎児はへその緒から栄養と酸素をもらって育つ.ヒトは生まれた後もずっと庇護されるから,すくすくと育つ.両親や指導者は,子供の言葉をきちんと受け入れ,「へー,そう」と共感を示しながら,大きく育てていってほしい.

〈参考〉

1)〒377─0013 渋川市辰巳町1713─5 「ネーブル」小松秀司様 Tel/Fax0279─22─0961

2)丹治吉順.子供が壊れる.AERA2000. 4. 17.1317: 27─30, 2000.

 

 オリンピックに芸術競技

 オーストラリアのシドニーで、待望のオリンピックが開幕。今世紀最後の大会である。私が特に気になる競技は、ソフトボールと野球だ。いずれも、私自身が長年関わってきたスポーツ。小学生時代からソフトのピッチャーを務め、高校時代は高校総体に出場し一回戦負け。大学時代は準硬式野球部で二塁手「殿馬」として白球を追っていたからである。オリンピック競技の中に、インライン(ローラー)スケート競技はまだないが、将来採用されれば、8-12年後に私はオリンピックを目指したい!冗談はさておき。オリンピックでは、世界中の選手達は、勝つために努力し、メダルを目指す。勝負は一目瞭然だ。強い者が、速い者が勝者となるのである。オリンピックの競技は当然スポーツのみ、と誰もが思っている。しかし、かつて、オリンピックには、スポーツ競技と芸術競技の二つがあったことをご存じだろうか?実は、音楽部門で唯一、銅メダルを受賞した日本人がいるのである1)

 ここで、歴史を少しひもといてみよう。クーベルタン男爵の提唱で始まった「近代オリンピック」。当時の規約には、「オリンピックはスポーツと芸術の二つの部門で競技を行わなくてはならない」という一章があった。実際、芸術を極める人々にとっては、素晴らしい国際的コンペテションの場を提供されていたのである。

 第二次世界大戦前、ヨーロッパではヒトラーのナチス・ドイツがいよいよその地歩を固めつつあった。ゲルマン民族の意識高揚を狙い、第11回オリンピックのベルリン大会を「民族の祭典」と銘打ち、昭和11(1936)に大規模に開催。当時、スポーツ競技はもちろんであったが、オリンピック規約にある「芸術部門の競技」も華やかで、全世界の芸術家たちが応募した。絵画部門には、日本から若き日の東山魁夷、小磯良平、棟方志功が出品したが、いずれも落選し、日本画を専攻する無名の藤田隆治と鈴木朱雀が入賞した。音楽部門には、日本から5人が応募。国内審査員である山田耕筰と諸井三郎、新興作曲家である箕作秋吉と伊藤昇、それと江文也であった。

 この中で、江文也が、作曲の部で銅メダルを受賞したのである。芸術競技に日本が参加できたのは、ベルリンオリンピックが最初で最後であった。というのは、次の開催年である昭和15年は第二次世界大戦で開かれず、昭和19年のロンドン大会では、日本、ドイツ、イタリアは参加を拒否された。この大会以降、芸術部門の競技は規約から削除されてしまったからである。すなわち、彼は、日本人でただひとりの、オリンピックで入賞した音楽家なのである。しかし、偉大な足跡を残しながら、なぜか忘れ去られた作曲家になってしまった。彼は天才的な「日本人」であるのに、音楽史上にも不思議に登場してこない。それはなぜだろうか?文也は明治43(1910)、当時の日本の植民地、台湾省に生まれたが、国籍は「日本」であり、「日本人」であった。彼は優れた作曲家であるとともにバリトン歌手として活躍した。オペラファンなら誰でも知っているのが、プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」。これを日本で初演し歌ったのが文也であった。筆者も伴奏ピアニストを務めさせて頂いたことがあるが、この曲は情感豊かで人の心を揺り動かすパワーがある。

 その後、文也はオペラ「タンホイザー」の主役を務め、NHKで放送された。日比谷公会堂でのステージには台湾から多くの人がつめかけ、台湾新民報には「音楽の天才江文也氏に聴く」と報道。台湾の誇りとして、郷土訪問音楽団が組織され、台湾7つの都市で文也の演奏会が開催されたほどであった。作曲については、長谷川和夫、李香蘭が主演した「蘇州の夜」などの映画音楽を担当した。松島詩子の歌うレコード「知るや君」は、A面が島崎藤村作詞「知るや君」、B面が「シュロの葉陰に」となっているが、A面の作曲、B面の作詞作曲も文也が行ったのである。これほど能力もあり活躍もしていたが、日本音楽コンクールの声楽で2年連続、作曲で3年連続、なぜか常に二位であった。オリンピックで銅メダルを得た曲名は「台湾の舞曲」。当時の日本で作曲家の大御所の曲が入賞せず、文也の曲が入賞してしまった。オリンピックにおける入賞は楽壇の世界で大きく取り上げられず、台湾出身という暗黙の差別に、文也はいらだっていたと伝えられている。

 おそらく、当時の一流の作曲家が文也のスコアを一見すれば、彼の能力、曲の斬新さを瞬時に認識できたものと思われる。私程度の者においても、子供のピアニストでも将来必ず伸びるという可能性や、シンプルな曲でも作曲者のブリリアントな才能などをビビッと感じることができる。だから音楽やスポーツを究めた人にとって、若い人の音楽的才能や運動神経のレベルは、一瞬にして理解できてしまうだろう。

 かの有名な映画「アマデウス」を思い出してみよう。サリエリがモーツァルトに会うやいなや、尋常でない才能に愕然。将来、宮廷音楽家としての自分のポジションが危うくなる可能性を感じ、神から授かったその才能に嫉妬した。芸術家の才能や感性の素晴らしさは、その領域の先輩が評価し、人に伝えなければ、他の人には分からない。先達がダメと言えば、世の中に出る芽を摘まれることになる。芸術の領域では、このような場合が起こりうる。個性的で斬新な発想やアイデアは受け入れられず、闇に葬られることもある。日本では、先人の立場や組織の安定のために、良い機会を与えられなかった人もあったことだろう。自由の国である米国なら、個性ある人こそが価値があると考えられている。もし、スポーツ競技のように、タイムという客観的な数字があれば、だれも異論をはさむ余地はない。スピードスケートならタイムのみが判断されるが、フィギアスケートの芸術点の判定は、人によって異なる。美に対する評価は難しい。文也は、昭和11年に北京に出発し、12年には中華民国臨時政府の国歌に相当する曲を完成。北京中央公園の大広場で、日本と中国の混成大ブラスバンドで演奏し、中国全土に放送された。昭和13年には北京師範学校教授として迎えられ、その後は優遇されて、昭和19年には国立音楽院院長となり、前途洋々と思われた。

 しかし、昭和20年日本が無条件降伏し、北京は国民党政府の治下に移り、文也は中華民国籍となった。日本軍部に協力したとの理由で、「文化漢奸」として投獄。文化大革命が終わったあと、他の文化人と同様「平反」で解放されたが、すでに健康を害していた。肺気腫、胃潰瘍に加えて脳卒中で倒れ、五年後に73歳でこの世を去った。

 当時の文也の曲を、現代の専門家が評している。「最近の坂本龍一などが使う作曲パターンを、文也は昭和の初めにすでに取り入れ駆使している。まったく新しくものだ。これでは、江文也が日本の現代音楽の先駆者だったというのも無理はないだろう」と。このように文也は天才作曲家であったが、台湾、日本、中国、中華民国の間で、政治という波間に漂う小さな木の葉のような生涯を送った。オリンピックの歴史には、このような人生も隠されているのである。まさに今、開催されているオリンピック。戦争後に芸術部門がなくなり、今は勝つだけのためだ。昔は「参加することに意義がある」と言われていたが、今は「勝ちさえすれば良い」と変わりつつある。これが、自分さえよければよいという、人のエゴ、国のエゴにつながってくる。音楽は人の心を豊かにする。もし、今でも五輪の中に芸術部門が生き残っていれば、人と人、国と国との関係が、もっと良くなっていたかもしれない。

 現代の五輪は、ドーピングや、選考過程をめぐる様々な問題がある。五輪とは、五つの輪が支えあって協調する「平和の祭典」のはずである。しかし、次第に、本来の意味からはかけ離れて来ているように感じるのは、私だけだろうか。五輪の意義をあらためて考えてみたい。国境がないとされる音楽は、人の感性に訴え、人に涙させる。21世紀に向けて、芸術家を育てようとする空気があれば、もっと思いやりが溢れた世界になるであろう。

<参考文献>1)井田 敏. まぼろしの五線譜 . 白水社, 1999.

 

 阿波の弾丸

 柔ちゃん、やったー。金メダルだ。

916日夜、声援と喜びで日本中がわき返った。やはり実力が違う。オリンピック2大会で連続銀メダル。今度こそ一番いい色を目指し、押しつぶされそうなプレッシャーの中での偉業、まさに素晴らしい。この瞬間、私は秋田県大潟村で食い入るようにテレビをみていた。翌日に開催される全日本ローラースケート大会の歓迎パーティー会場。ここでも万歳コールが続く。私は田村亮子選手のガッツポーズから発散する力を、翌日のスケーティングのイメージに導入していたのである。

 いよいよレース当日。私がエントリーした100mのスラローム競技。スラロームとは、スキーで言えば大回転や回転のように、ポールすれすれにジグザグで滑ってタイムを競うもの。上位選手の差はごくわずかで数m以内しかない。タイムで言えば0.1-0.3秒を縮めるため、数年間にわたり練習を積んできたのである。パーンと号砲。スタート後6歩で最初のポールを越える。5m間隔で17個の関門を、できるだけ腰を落としてストライドを伸ばした。結果は予選第1位。上位8人でのトーナメントでもいずれも2m以内で競り勝ち優勝することができた1)。歳とともに感じる体力の衰え。自分との戦いの日々が続いていただけに、内心ほっとした。この優勝は、実はテレビ番組のお陰であった。レースの1週間前、シドニーオリンピックに向けたNHKの特集番組をみた。米国陸上100m男子代表3人は、同じ陸上クラブ会員が独占した。指導コーチは説得力に富む理論を展開する。100mを3つのフェーズ(相)にわける。0-20mは太ももの前にある大腿四頭筋を主に使い、できるだけ低くスタートする。20-40mには大腿四頭筋と太ももの後ろにあるハムストリングの両者を使って、身体を起こしてくる。40-100mは、主にハムストリングの力で疾風のごとく駆け抜けるのだ。ももを上げるという従来の走り方は、今ではもはや古い。現代走法では、地面を後ろの方向にプッシュすることで身体を前進させる。この走法は、カールルイスや伊東浩司も取り入れている。大リーグに行くイチローも走法を最近楽にスピードが出る本法に変えた。本コーチは、陸上クラブへの入会選手に必ず見せるビデオがある。長野オリンピックの清水宏保のスタート直後の映像だ。このイメージでスタートするように指導。従って、清水選手の滑りが、陸上100mのメダリストの走法や短距離界の歴史にも少なからず影響を与えていたのである。

 これらのことにヒントをえて、1週間で滑走法を工夫して試合に臨んだ。もし、番組を見ていなければ僅差で負けていたかもしれない。鍛錬を続けていると、自己体力の把握、セルフコントロールやイメージトレーニングの重要性がわかる。その後、高橋尚子選手がマラソンで金メダル。爽やかな風が世界中を駆け抜けた。平常の脈拍が30数回/分というスポーツ心臓、練習好き、名伯楽の小出監督の存在など、多くのファクターがうまく揃った。練習は厳しいけれど走るのが好き、苦しいことは嫌いということではない、レース中には監督、恩師、家族の顔が脳裏をよぎる、など高橋選手のコメントが印象的だ。医学的に推理してみた。好きなことやボランティアの気持ちで嬉しいと感ずるときは、体内麻薬であるエンドルフィンが際限なく分泌されるとされる。高橋選手は、苦しい状況でも、走るのを楽しみ、感謝する気持ちがあるからこそ、快楽ホルモンが大量に分泌され、苦しみや痛みの認知レベルが下がっているのではなかろうか?若干その気持ちがよくわかる。スケートの練習は孤独であり確かに苦しい。でも、嫌いではなく練習が好きなのだ。結果を追い求めているのではなく、毎日こつこつと練習を続けるプロセスをずっと楽しんできた。1か月前のレースでたまたま良い結果が出た

 

 21世紀の癒し

「心の病に効く薬はありますか?」「この薬を飲んで下さい。病気にはあまり効かないんですが・・。」これは、演劇の一場面である。21世紀最初の2001年1月。新宿で公演されていた演劇「白衣は踊る」を私は観ていた。舞台の上には、ロバート山田氏という才能豊かなアクターただひとり。精神科医のようにカウンセラーを演じたり、はっつぁん、熊さんと落語を演じたり。話題は、政治・経済・医療から、芸術・芸能・宗教まではば広い。白いタイツ姿でクラシックバレーを踊ると思えば、下駄を履いてタップダンスを踊る。伝統衣装に身を包み、「歌舞伎マン」としてニューヨークやパリに進出。シャンゼリゼ通りの路上パフォーマンスによって、パトカーに乗せられるなど、エピソードは数知れず。彼の幅広く深い演技力は、まさに類いまれなものであろう。

 彼のステージは、吉本と心理学が融合したようなものと評されている。4月には「ER/精神救急救命室」という心理学と芝居との融合による実験劇場が予定。日本メンタルヘルス協会が後援しているというのも興味深い1)。私は、バラエテイに富む彼の芸に腹を抱えて笑いながら、一方では、冷静にステージの演出を観察していた。1つのシーンを余り長時間伸ばさず、場面を切り替えている。音楽コンサートでは、曲目の配列を強弱、遅速、硬軟と交互に配置するが、それに似ている。メインステージの隙間の時間帯には、スライド映像とビデオを挟み込んでいる。心理的空白が生じないように、うまくコーディネートしているようだ。これらの手法は、私にとって参考になった。というのは、私もステージで同様なプレゼンテーションをすることが多いからである。生活習慣病や音楽療法、芸術療法、運動療法などについての講演は、すでに300回を越えた。私の基本的手法は、スライド映写とピアノ演奏が中心だ。話題の隙間には、ビデオを採り入れたり、聴衆が歌や踊りに参加できるように工夫している。慣れてくるにしたがって、最近はアドリブが多くなってきた。私がずっと考えてきたことは、「もっと人々の心にインパクトを与え、聴衆の心と身体が、緊張と弛緩を気持ちよく繰り返してもらうために、どのような手法と内容を用いるか」である。演出だけではなく、ロバート山田氏の演劇内容は、理性と感性のバランスが良いと感じた。笑いには、駄洒落、大げさな表現、ぼけとつっこみ、ブラックユームアなどなどいろんな種類がある。彼の笑いは、医学、精神医学、心理学をベースにして、芸術や芸能などを織り交ぜたもので、お洒落に笑うことができた。

 今回、彼がテーマに選んだのは「癒し」。癒しとは、仕事から疲れて家に帰って風呂に入り、湯船の中でフーと力を抜いたときの感じである。現代はまさに「癒し」の時代。いつでも、どこでもマイブームは「癒し」。癒しと銘打って商売しているものこそ、怪しく、卑しい、と言う人もいる。現代の「癒し」は、表面的な安らぎや和(なご)みの雰囲気で使われ、本来の癒しの意味と異なるのではないかと、私は感じている。「癒し」という漢字の成り立ちについて、やまいだれの中にあるのは「愈」。この字は、「丸太をクルっとくり抜いて作った小さな舟」を意味する。ここから転じて、「身体の中にある病気のかたまりを、クルっとくり抜いてしまうこと」を、「癒」という字で表現したのである。以前の日本には、高度成長時代があった。お腹がすいていても、学生は、勉学やスポーツなど、何事もとことんまでやったような気がする。勝負には実力と運が作用し、勝つ時も負ける時もある。がんばっても、結果が良いときもあれば、逆に悪いときもある。しかし、一途な思いで努力したプロセスには、充実感が感じられた。だから、勝っても負けても泣くことができたのである。他方、サラリーマンは、自己や家族をある程度犠牲にしながらも、会社のために尽くす企業戦士であった。物づくりに命をかけた人々のドキュメント「プロジェクトX」がNHKで放映されている。あの時代には、仕事にかける真摯な思い入れがあり、プロジェクトを遂行するために、様々なドラマと人生があったのだ。彼らは、命をかけて、責任や職務を果たしていた。

 このように、学生も社会人も、それぞれ目標を持って努力していた。当時、勉学や労働の諸条件は十分とは言えず、いろいろな工夫をしながらやっていた。ここには、自分と友人や同僚との関わりあいや、笑いや涙ながらの苦労の思い出が必ずあり、これこそが大きな財産だった。苦悩をのり越えたことがあるからこそ、人は癒しを感じられるのではないだろうか。また、お互いに共通体験があったり、苦しい経験を理解してあげられるからこそ、人を慰め、人を癒すことができるのではないだろうか。現代の日本は、豊かになりすぎてしまった感がある。コンビニが身近にあってペットボトルを持ち歩き、飢えや渇きを感じることがない。この人間の本能を我慢した経験がない人は、他の些細なことにでも我慢することはできないのである。遊びも変わった。本来、身の回りにあるどんなものでも、遊びの材料となった。しかし、おもちゃは買い与えられるもので、作ることも考えることもしない。子供はテレビゲームで一人で遊び、高校生や大学生になって、小学生レベルのいたずらをしている。叱られたことがないので、善悪や状況の判断、仕事と遊びの境界線がわからないのである。運動会の徒競走では、一生懸命走るのは格好悪いという。一方、ITが普及することで、「クール」が格好いいという価値観に変わってきてしまった。

 このような状況だから、勉学やスポーツなどを毎日コツコツと継続したり、苦しい体験を持つことができる子供が少なくなった。このように育った人が、他人の苦しみや境遇に共感でき、癒してあげることができるだろうか?先日、世界の若者に対するアンケート結果が発表された。中国や韓国の若者は、立身出世や社会に役立つ人間を目指している。米国では、新しい会社を起こしたいという夢があり努力している。日本の若者は何の希望や目標もなく、フリーターとして、毎日が楽しく暮らせたらよいという。どうも、最近の日本には、「discipline」の学童や青年は珍しくなったような気がする。disciplineという英単語は訓練と訳されるが、研修医としてトレーニングを受けている人や、学問やスポーツで修練している人にも用いられる。なお、discipleは弟子、門人、使徒という意である。以前には、いろいろな職業で弟子のような修行や修養をすることがあったが、現代ではお目にかかれることは少なくなったようだ。

 若者には4つのタイプがあると言われる。コツコツ青年(勉強好きのマジメ青年)、ふわふわ青年(流行を追う遊び人的青年)、イライラ青年(いつも焦燥感にさいなまれている青年)、ゆうゆう青年(周囲の状況にあまり影響されない、我が道を行く青年)である。それぞれのタイプで、ストレスや癒しに対して、感じ方や対処法が異なるものと思われる。人を癒す方法には、音楽がある。現代、高齢者における癒しの曲は、童謡や昔の歌謡曲である。10歳代の多感の時期に聴いて慣れ親しんだ曲は、一生その人のキーワードのように、キー曲となる。曲を聴くと当時の思い出や映像が一緒に回想することができ、治療やケアとして有用である。一方、現代の子供は童謡を知らず、音楽の洪水の中で、溺れかけている状況だ。彼らは将来、心を癒す自分の曲を持てるのだろうか、と心配になる。多くの日本人は、美空ひばりの「川の流れのように」の歌によって心が癒される。しかし、現代の日本に生まれる多くの歌は、うたかたのように生まれては消えて、川の流れのように流れていってしまっているのが現実ではないだろうか。

 先日、20世紀最後の紅白歌合戦をみた。2000年に流行した歌に加えて、古く懐かしい歌も楽しんだ。フィナーレでは、二足歩行のヒューマノイドロボット「ASIMO」が舞台の中央で、歌手と手をつないでステップを踏んでいた。ロボット犬の開発・進化が進み、人間ロボットもこのレベルまでになった。ファジー理論やロボットの判断機能、ITの発展から推測すると、この技術は10-100-1000倍と短期間に進化するだろう。今世紀中には、癒しのマニュアルをプログラムされたロボットが、私たちの心身を和ませ、慰め、癒してくれるかもしれない。

資料 1)心理カウンセラーに憧れた芸人と、芸人に憧れた心理カウンセラーの二人で行う「ひとり講座とひとり芝居」。問い合わせは、電話03-5731-6862http://www.mental.co.jp

 

 心に染みる

標高3000m、米国ロッキー山脈の裾野には、仙人が住んでいる。細身の身体に30年以上伸ばしている髪。目は優しくて雰囲気は穏やか。薪を割り、囲炉裏(いろり)の生活がよく似合う。これまでも富士山麓や長野県八坂村などに居を構えたことがある。時の流れとともに雲に乗ってさらに高く、天により近くなってきた。あたかも心も身体も大自然にとけ込んでいるかのようだ。仙人とは、著名な作曲家、喜多郎さんのこと。1953年に生まれて19歳でシンセサイザーに取り組み、78年にアルバム「天界」をリリース。80年にはNHK特集「シルクロード」の音楽を担当し、一躍知られるようになった。この映像と音楽が私たちを古代ロマンの旅へと誘ってくれた。

 このたび20013月に、アルバム「シンキング・オブ・ユー」が、世界で最も権威あるグラミー賞を受賞したのである。今までもたびたびノミネートされてはいたが、7回目でようやくつかんだ栄冠。私は以前から大の喜多郎ファンの一人であり、それだけに私事のように嬉しかった。今回のニューエージアルバムの最優秀賞は、癒し的な要素の強い音楽を対象とした部門。彼の音楽は、長年、民族を越えて聴く人の郷愁を誘い、世界的な人気を呼んでいた。たとえば、1990年にリリースされたアルバム「古事記」は、同ジャンル部門で8週連続トップを走ったこともある。なぜ、喜多郎の音楽はこんなに人の心を捉えるのだろうか。その特徴について考えてみた。まず、シンセサイザーを用いて作曲していること。ハイテクを巧みに駆使することによりあらゆる可能性を追求できる。通常、電気的に作られた音を長時間聴くと疲れることが多い。しかし、喜多郎の音楽では、自然音のように私達の心を共鳴させ、気持ちよく感じる。音楽の6要素であるリズム、メロディ、ハーモニー、遅速、強弱、音色をトータルに調和させ、バランスは左脳で計算せず、右脳で快適と感じたものであろう。

 次に、喜多郎が東洋人であること。日本で育ったベースに、西洋からの斬新なファクターが積み重なったことが、今日の成功につながったと思われる。西洋では太古の昔から、動物や自然を相手に立ち向かい闘ってきた狩猟の歴史がある。競争や勝負により、勝つか負けるか、白か黒かというようにデジタル的な思考である。一方、東洋では、人間とは大自然の中では小さな存在。自然に畏敬の念を払い、恵みを頂くように工夫してきた農耕の歴史がある。自然を征服するのではなく、調和し融合するという発想である。曖昧模糊とした不思議なバランス感覚が存在するアナログの世界だ。虫の音や波の音を聴いた場合、西洋では雑音として、東洋(日本)では、言葉として認知されるという。日本人は、自然音や楽音、言葉を区別せずに聞き、聴こうとする傾向がみられる。以上から、喜多郎の音楽は、割り切れず、測り切れず、という深遠な美しさを有しているのかもしれない。

 3番目には、喜多郎の宇宙的な感性。これが人に備わるには、基盤に広い教養や高い知性が必要だ。これに加えて、研ぎ澄まされた五感と感性があるから、大自然から様々なメッセージを感じとることができる。これらを統合させることにより、宇宙とか文明などを含む大胆で壮大なテーマを、音楽で表現できる。言葉の壁を越えて、言葉以上のメッセージを全世界に発信してきた。彼は、異空間への旅に多くの人を誘うドリーム・ウィーバー(夢織り人)であると言える。喜多郎は、「音を楽しむには、心の健康がまずは大切である。人はだれもが自分自身を治癒させる力を有している。癒す力とは、その人の心が思うことにより生まれてくるもの。一番いいのは、感動することだ。音楽は、それを引き出させるように、脳のある一部分をノックするだけ。目を閉じれば見える、写真を見れば自然の息吹が聞える」などとコメントしている1,2)

 ところで、もう一人、私達に夢を与え続けた歌手を紹介したい。日本では、和服姿の男性歌手第1号。浪曲で鍛えたノリのいい歌声とサービス精神にあふれたキャラクター。口上は「お客さまは神様です」。その人とは、三波春夫さん3)20014月に惜しまれながら遠くに旅だってしまった。しかし、数十年間にわたり、私たちに日本の歌と心を与え続けてくれた功績は大きい。13歳で上京し、16才で日本浪曲学校に入学。浪曲師としてプロになったが出征した。戦後、シベリアで4年間の抑留生活を送ったが、歌が人の心を癒し励ます力を実感した。帰国後、地方巡業で全国を廻ることになる。私が生まれた昭和32年(1957年)には、デビュー曲「チャンチキおけさ」がヒットした。溌剌としたパワーが感じられる曲である。

   月がわびしい 露地裏の 屋台の酒の ほろにがさ 知らぬ同士が 小皿叩いて チャンチキおけさ おけさ せつなや やるせなや 

ひとり残した あの娘 達者で居てか おふくろは すまぬすまぬと 詫びて今夜も チャンチキおけさ おけさ おけさで 身を責める

       故郷を出る時 もって来た 大きな夢を 盃に そっと浮かべて もらす溜息 チャンチキおけさ おけさ 涙で 曇る月 

 私が初めて聴いた時、リズミカルで楽しい音頭のような気がした。しかし、歌詞の内容を熟読するとちょっと違う。当時、農村から都会へ移動した多くの人々。これが経済成長と連動し、社会構造を根底から大きく変えた。厳しい仕事が普通の時代。ストレスで体調を崩した人もあったであろう。苦しい心情を吐露できる場所や相手もそう簡単には見つからない。このような中、サラリーマンは、飲み屋で皿や茶碗をたたいてこの曲を歌った。顔で笑って心で泣いていたかもしれない。辛すぎて笑うしかなかったかもしれない。でも、自分の心を代弁してくれる歌詞に触れてホッとし、賑やかに酔える歌で励まされ、「明日からはがんばろう」と高度成長を支え邁進できたものと思われる。「チャンチキおけさ」は心身を癒し、医者や薬の役割を果たしていたのではあるまいか。テレビが普及し始めたころで、最も身近な娯楽は歌謡曲。三波春夫は画面を通じて、笑顔とともに、人情を、浪曲を、日本語の美しさを、あらゆる年代の人に伝えた。また、派手な着物や絢爛たる舞台の演出も加え、みせる歌としても、新しい境地を開拓したのである。

 その後、64年には東京オリンピックの「東京五輪音頭」を唄い、国民的歌手へ。大阪の万国博覧会のテーマ曲「世界の国からこんにちは」が、作詞:島田陽子、作曲:中村八大、唄:三波春夫の協力で作られた。歌詞を抜粋すると、

♪1: 西の国から 東の国から 世界の人が 桜の国で   2: 月へ宇宙へ 地球を飛び出す 世界の夢が 緑の丘で   3: 笑顔溢れる 心の底から 世界を結ぶ 日本の国で   さび: 1970年のこんにちは 握手をしよう 

 私は当時、中学生。経済も生活も豊かになり、夢や希望に胸膨らませていたときだ。時代の象徴は岡本太郎の「太陽の塔」。このテーマソングで、海を渡って人々がどっと押しかけてくると思っていた。西洋生まれのイベントと日本の芸能文化を融合させた国家事業。三波春夫は着物を纏い、斬新なスタイルにアレンジされた盆踊りと歌を、世界に発信したのである。彼は、しばしば日本について語った。「富士山と桜は、いつどんな時代にあっても、私たちに安らぎを与えてくれる。もうひとつは歌。心に深く刻まれた歌は私たちの生涯の宝物である」と。ちなみに、三波春夫は学者でもあった。浪曲と歌謡曲とを合体させ、日本の話芸についても研究を続けた。ライフワークは歴史研究であり、「聖徳太子憲法は生きている」、「真髄 三波忠臣蔵」、「熱血!日本偉人伝」などの著作がある4)
生活は次第に学究的でストイックな姿勢となり、自宅では、歌の練習か、読書か、歴史に関係した原稿の執筆を行っていたという。

 今回は、二人の音楽家、喜多郎さんと三波春夫さんについて述べた。いずれの巨匠も、ジャンルは違っても私たちに感動を与える。共通するのは、高い精神性や強い探求心、品格が備わっていることだ。その音楽は私たちの心の琴線を震わせ、ヒューマニティ溢れるハートまで、心に染みいってくるような気がする。

資料

1)喜多郎。音楽&写真集 「喜多郎 with the earth」。小学館、2000

2)喜多郎による四国八十八ヵ所HP  http://kitaro.to/sche/88/

3)'86年紫綬褒章、'94年勲四等旭日小綬章 受章。'94年発表の「平家物語」が日本レコード大賞企画賞受賞。

4)三波春夫。言わねばならぬッ!(永六輔さんとの対談集)、NHK出版、1999

 

 日本SFの父

 その黄昏れゆく地帯の直下にある彼の国では、ちょうど十八時のタイム・シグナルがおごそかに百万人の住民の心臓をゆすぶりはじめた。

「ほう、十八時だ」 「十八時の音楽浴だ」 「さあ誰も皆、遅れないように早く座席についた!」・・・

 博士コハク、男学員ぺン、女学員バラの三人は黙々として、音楽浴のはじまるのを待った。地底からかすかに呻めくような音楽がきこえてきた。「ちぇッ、いまいましい第39番のたましい泥棒め!」ペンは胸のうちで口ぎたなくののしった。

 第39番の国楽は、螺旋椅子をつたわって、次第々々に強さを増していった。博士はじッと空間を凝視している。女学員バラは瞑目して唇を痙攣させている。男学員ペンは上下の歯をバリバリ噛みあわせながら、額からはタラタラと脂汗を流していた。国楽はだんだん激して、熱湯のように住民たちの脳底を蒸していった。紫色に染まった長廊下のあちらこちらでは、獣のような呻り声が発生し、壁体は大砲をうったときのようにピリピリと反響した。

 紫の煉獄!住民の脂汗と呻吟とを載せて、音楽浴は進行していった。そして三十分の時間がたった。紫色の光線がすこしずつうすれて、やがてはじめのように黄色い円窓から、人々の頭上にさわやかなる風のシャワーを浴びせかけた。音楽浴の終幕だった。螺旋椅子の上の住民たちは、悪夢から覚めたように天井を仰ぎ、そして隣りをうちながめた。「うう、音楽浴はすんだぞ」・・・

 小説「十八時の音楽浴」の冒頭の部分である。このような内容が、1937年という時代に発表されていた。描かれているのは音楽で国民を洗脳するという恐ろしい未来社会。科学は万能ではなく、悪用された場合には、人間は、そして人類は、科学の怖さを思い知らされることになる。

 このようなscience fiction(SF)文学を執筆していた科学者が当時いた。その人とは「日本SFの父」と呼ばれている海野十三(うんの じゅうざ)。彼の本名は佐野昌一で、代々徳島藩の御殿医の家系だ。ぱりぱりのご城下、お城の門から一町ほど下った所で生まれた。開業していた祖父・渉に感化を受け、科学が大好きで頭脳明晰な少年として育った。早稲田大学理工学部を卒業後、逓信省電機試験所に勤務していたのである。その頃、探偵小説家としてデビュー。「少年倶楽部」や「大毎小学生新聞」に書いた「海底大陸」「怪鳥艇」「火星兵団」などによって、日本中の少年少女の心を大きく揺さぶったのである。横溝正史や江戸川乱歩との親交もあり、海野の小説を読んだ手塚治虫などが、その後の日本のSFを発展させていくことになった。

 そういえば、私が憧れ尊敬している手塚先生が漫画の世界で描き続けてきたものが、次第に現実のものとなっている。1999年にはロボット犬のアイボ、2000年末の紅白歌合戦に登場したホンダのロボット「Asimo」など。2001年夏にブレイクしているスピルバーグ監督が作った「A.I.」では、キーワードを入れると親に愛情を抱くようになるロボットの子供が主人公。母と子の愛だけでなく、様々な示唆が折り込まれている素晴らしい映画だった。今後、人間はいったいどこに向かうのか、と感じたのは私だけではないだろう。さて、先日徳島では「海野十三の特別講演会」が行われた。海野の研究者で広島ペンクラブ幹事である天瀬裕康氏が講演を行い、新資料も発表した。彼の本名は渡辺 晋、実は広島県大竹市で開業している内科医なのである。

 この企画は、年に1回、今はなき海野十三を慕う研究者の集まりに合わせて、行われた。徳島市街地の中心には、市民の憩いの場である城山(しろやま)と緑豊かな中央公園がある。この中に、海野十三文学碑が立つ。この碑の前で、海野からのインスピレーションを賜りながら、科学者・文学者などが共に語りあう。文学碑には、江戸川乱歩自筆の文章が大きく書きつづられている。「全人類が科学の恩恵に浴しつつも同時にまた、科学恐怖の夢に脅かされている。恩恵と迫害との二つの面を持つ科学、神と悪魔の反対面を兼ね備えている科学に、われわれはとりつかれている。かくのごとき科学時代に、科学小説がなくていいのだろうか」海野は肺結核による喀血にも苦しみながらペンを捨てぬ、立派な最後であったと伝えられている。そのエビデンス(証拠)は、江戸川乱歩氏が、弔辞として記しているものの中にあるので、是非とも紹介したい。「海野君の懇切を極めた友情は、友人後進達の凡てが口を極めて称える処だ。君はなくなるその日にすら友情の手紙を書いている。一例をあげると僕がある事件で手紙を出したのに対し、なくなる当日の十七日に返事を出してくれている。それにはいつもの君の上手な毛筆で要件の他に、私の心臓が悪いという事を伝え聞いてその養生法について懇切を極めた言葉が書き連ねてあった。そして最後に、「私も大分元気づきました」と君の明るい近況が書いてあったのだよ。十八日近親のお通夜もすませて帰ったその翌朝、君からの手紙がついた。私は涙をこぼしてこれを読んだ。いささか私事に至ったが探偵作家一同を代表してこの言葉を捧げる。」

 このような歴史があったのか、と私は驚かされた。海野自身だけでなく、彼の母、最初の婦人も結核で倒れていたのである。科学者であった彼は、自分の肺結核の状態をある程度理解していたことだろう。それも、黄泉の国へ旅立つその日においても、友人の江戸川乱歩への返事を書き、「私も大分元気づきました」と相手を慮って筆をしたためている。医者が患者をみる場合や、人と人とが関わる場合に、共通することがある。[If I were you](もし私があなただったら)と立場を変えて考えてみることだ。もし、私が海野だったら、咳き込んで喀血して息もできず、まさに苦しみの極みという状況で、このように書いたであろうか?彼は芸術にも堪能だった。書画、カメラの腕は抜群。「十斉」の雅号で俳句も詠んだ。絵の才能は著書の中で自ら描いた漫画に生かされた。レオナルド・ダ・ビンチのように、才能が溢れていた。おそらくその日も、彼の頭の中はコンピュータのデスクトップの画面みたいに、やりたい仕事の書類が山積み。急ぐ順番にクリックして仕事をこなしていたのではなかろうか?心身が疲れてはいても、友を想いながら、命の限りまで仕事に自分をかけ、燃焼しつくしたのかもしれない。彼は近い将来のロボット社会の功罪をリアルに論じ、その未来予測は当たっているようだ。科学の持つ二面性を冷静に見据えつづけられた少ない人物の一人であったことは間違いない。戦争や病気により体を壊し病没して五十年がたつ。それでも、今もなお海野の功績がたたえられ、全集も刊行されている。それは、海野が未来をつくる子供たちに向けて、作品を発信しつづけたからだろうか。多くの科学者・文学者の中で、幸運な作家の一人であると言える。

資料1) 海野十三全集13, 三一書房, 1987-93.  2) 海野十三の会. 海野十三メモリアル・ブック. 先鋭疾風社, 2000.

写真1)海野十三の顔写真 写真2)文学碑の江戸川乱歩の書

 

 1ヶ月で身体は進化する

 平成13年夏から秋にかけて、私は刺激的な4カ月を過ごした。というのは、いくつかの目標に対するトレーニングにより、私の肉体は明らかに変化し、進化したと感じたからである。このたび、科学者の目で、客観的に観察し、分析することができたと思う。

1)まず、私の心と身体について概説する。44年の半生を反省すると、心には持久力がある程度あると思う。一方、身体については、子供の頃から、短距離は速いが、中~長距離は、ほとんど最後尾と、持久力はなかった。おそらく、筋肉は白筋が多く、赤筋は少ないのだろう。最近、私の肉体を科学的に調べたデータを紹介する。自転車のペダルを踏みながら、コンピュータで負荷量を変えて、持久力を測定するもの。最大酸素摂取量は2.31 l/分、体重当たりでは36.9 ml/kg・分と、6段階では下から3番目の評価のレベルであった。

2)平成13年7月には、3分間の肉体を作りあげた。石川県根上町でのローラースケートの大会のため。昨年はシニア部門で2分35秒のタイムで優勝できたものの、後半には、太ももはパンパンで動かず、息は絶え絶えで心臓は喘ぎ、どうなることかと思った。  そこで、今年はスタミナ保持のため、前傾姿勢に耐える訓練を行った。最初は1分40秒で太股の筋肉が痛みだし、低い姿勢がとれずギブアップ。しかし、トレーニングを続けていると、痛み出すのが2分10秒後となり、3分まで耐えられる身体へと改造されたのである。すなわち、乳酸の生成が遅くなり、乳酸が蓄積しても筋肉運動を続けられる身体へと進化したのだ。本番のレースでは、強風にもかかわらず昨年とほぼ同タイムで滑走し、二連覇を果たせた。

3)平成13年8月は、ピアニストの身体へと改造した。私が今までピアノコンクールに出場したのは、12歳までと36歳の時で、今回は久しぶりである。改造のポイントは「脱力」。ピアノは打楽器の一つであり、鍵盤を叩くとされるが、それは大きな誤り。鍵盤は、指先で微妙に撫でるものだ。それも肩、上腕、前腕、手首、指の力を抜いて、100分の1mmほどの違いの感覚で深さを調節しなければ、きれいな音色はでないのである。脱力とは、本当に難しい技だ。知らない間に、力んでしまう。そのトレーニンには、筋肉の緊張と弛緩、心の緊張と弛緩、これらを自分で工夫しながらそれぞれ行うのである。以前に自分の前腕や指の筋電図を取ったことがある。鍵盤を叩いて、ふつうに力を抜くと約80msecだった。瞬時に脱力するようにすると約30-40msecとなった。音色はこれだけでは決まらない。世界最大のピアノコンクールとして知られるPTNAピアノコンペティション。今年は全国から28000人がエントリーし、東京決勝大会に進んだのは400人。私はその中の一人で、シニア部門で上位の数名以内に入賞し奨励賞を頂いた。大切なのは、結果ではなくてプロセスだ。久しぶりに、心と身体のいずれもで緊張と弛緩というストレスと癒しを感じることができた。青春ふたたび、夏の1ヶ月は、私の心も熱く燃えていたのである。

4)平成13年9月は、大変の1カ月だった。私は音楽療法の学会の世話をさせて頂いているが、様々なマネージメントが重なった。通常と異なり、膨大なマネージメントの処理が必要で、ほとんど眠れない日々が続いた。体は弱り、気力だけでがんばっているという状態だった。これも、神様か仏様が与えてくれた試練であると思っていた。確かに、筋肉が痩せたが、ここからどのようにするかが工夫である。

5)平成13年10月は、再びスケート訓練の月。岐阜県の長良川の河川敷1300mのコースで、毎年国際インラインスケート大会が開催され、この4年間の私の成績は、10-20位、9位、5位、4位と昇ってきていた1年間の練習で、毎年わずか数秒ずつ早くなってきていた。有森祐子の言葉のように、「次第にタイムがよくなっている自分を誉めてあげたい」、と自画自賛してきた。人と比較しての競争ではない、自分自身との戦いなのである。

 そんな時、驚くべきニュースが飛び込んできた。高橋尚子がシドニーオリンピックで優勝し、地元の岐阜県が、「高橋尚子ロード」という名づけて、コースを延長し2000mになったのだ。そもそも持久力がない私は、「2000m!」という文字をみると、気が遠くなってしまった。いつもながら結果は気にせず、大切なプロセスの計画をたてた。レースは2000mで、最後の300mはやや登り坂。ここは心臓破りの坂で、多くの選手がばててしまうだろう。予想タイムは3分40-50秒。以上から、5分の耐久レースと判断し、体を改造し始めた。スクワット、手振り、スライドボードで横滑り、自転車踏み、レッグプレス、すべて5分ずつ行った。3分と5分は全然違う。少し力を使いすぎれば、到底5分は体が持たない。その感覚を体で感じ覚えることができた。 レースの間際に、高橋尚子の走りを分析したテレビ番組があった。マラソン時における上肢と下肢への血流の比率の研究が紹介された。有森祐子は両手を大きく前後に振って腕で引っ張って走るタイプで、血流の比率は上肢が4、下肢が6という。一方、高橋尚子は、小さくやや横に振るために上肢への血流は少なくてすみ、3対7という。  そこで、私は、ハタと気がついた。スケート滑走では、両手を振るとすぐに疲れてしまう。片手の場合、前腕の重みを使って、肩と肘の関節を脱力しながら振ると楽だ。中~長距離では、両手を背中に組んで滑っている。両手を背中に組む時にも、私の筋肉が緊張状態にあり、エネルギーを消費している。脱力できないだろうか。すばらしいアイデアがヒットした。幅の広いゴムベルトを巻いておき、背中とベルトの間に、両手首を挟んでおけば、上肢がまったく脱力できるはずだ。実験してみると、まさに、肩から上肢はまったく脱力できながら、滑れることがわかった。この感覚は、ピアノで培われているために、容易く脱力ができたのであるレースの当日、スタートダッシュの後8回だけ両手を振り、以降は背中のベルトに両手首を挟んだ。無理のないペースで滑り、残り500mのところでは4位。ここで、高橋尚子のように、自分の体に「調子はどうだ」と尋ねた。すると、「力は残っている、スパートできる」との返事。ペースを若干上げて、2人を抜いて2位だ。残り300mから上り坂だ。残り200mのところで、心肺機能と太股のエネルギーの余力を確認した。「これなら、いける。」トップを走る選手は、私の前方5m。残りは200m、ここでダッシュをかけて、奪取を目指す。一歩一歩差が縮まっていくのがわかる。太ももは悲鳴をあげつつあるが、この痛みの程度なら、筋肉は耐えられるハズ。片手振りで、バランスを崩さないようにスパート。トップと並んだ。同じペースで力を振り絞る。ここで、両手を振ると、もっと速くなるが、この太股の踏ん張りでは、バランスを崩して転倒する可能性がある。ここは、片手でいこう。ヤッター。ゴールした。上位3人のタイムは1秒以内という激戦であった。もし、体幹に巻いたゴムベルトがなければ、間違いなく負けていたことは確実であった。

このように、この4カ月はいろいろなトライアルで、学ぶことが多かった。不思議なことに、サイボーグではないが、1カ月ほどで、ある程度、身体を進化させることができると感じた次第であった。

 

 言葉は生き物

 作詞家・作曲家の小椋佳が新しい舞台に挑んだ「歌綴り『ぶんざ』」を観た。いやー、本当に楽しんだ。感動した。久しぶりに、日本語と音楽がぴったりフィットした一体感を感じられたからである。小椋氏自身もステージの上で演技し、語り、そして歌っていた。本演劇のストーリーは、主人公「紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)」が、故郷の紀州から暴風雨の中を蜜柑を江戸に運び、若くして財をなしたという話。吉原での豪遊など、数々の逸話なども魅力溢れるエピソードだ。これは、オペラでもなく、またミュージカルでもない。小椋氏が1997年に試みた新しいジャンル「歌語り」では、一休宗純の生涯を描いた三部作が話題をさらった。演歌、民謡、浪曲、琵琶などが登場。ステージでは、歌や舞、語りに加えて、浪曲師と歌手が、和洋混淆で「歌や心のこぶし」までも表現したのである。

 今回の「歌綴り」では、現代の感性を大切にして、一層磨きをかけた歌舞台へ展開している。尺八・笛、三味線、琴、お囃子に加えて、ピアノやシンセサイザーまで登場。語りあり、歌あり、歌にならない「こぶし」まで感じられた。最近、巷に溢れる歌について、感じていることがある。歌詞が単なる日記の延長であったり、その内容が表面的だったりする。また、歌詞に日本語や英語、感嘆詞が不規則に入り交じるのが流行し、私たちの言葉があまり大切にされていないようだ。旋律の流れや和音の進行は、自由闊達と言えばお洒落かもしれない。しかし、歌詞とまったく関係なく、旋律が勝手に突き進んでいくような曲もある。これらが良いとか悪いとかという問題ではなく、現代の流行歌の特徴であることは理解できる。しかし、あまりにもバランスを欠く場合もあるように私は思う。これと対極にあるのが、このたびの「歌綴り」。言葉のリズムやイントネーションが音楽と自然に融合している。だからこそ、言葉を綴るように、旋律を綴った音楽が、私の心に何の抵抗もなくすーっと入ってきたのだろう。これほど含蓄のある日本語を駆使しながら、わかりやすく仕上げたパフォーマンス。関係者すべての方に対して敬意を表したいと思う。小椋氏は東京大学から第一勧業銀行に入ったエリートの銀行マンで、音楽家・歌手でもある。昭和50年には布施明に贈った「シクラメンのかほり」がレコード大賞を受賞したのは有名だ。最近リリースされたのが、小椋佳最新ベスト・コレクションの「折節(おりふし)の想い」。CD10巻に139曲が含まれ、各巻のタイトルには、テーマにかかる「枕詞」がある。たとえば、くさまくら、たらちねの、ひさかたの、うつせみの、あかねさす、など。歌詞ばかりでなく、美しい日本の言葉がちりばめられている。詩の心を持っている音楽家が作る歌は、さすが違うな、と感じる。いずれの国の言語であろうと、言霊を感じ、いたわっている。小椋氏のこの曲集は、クラシックの作曲家シューマンの『詩人の恋』などの歌曲集に匹敵するかもしれない。小椋氏の音楽や舞台の世界に共鳴する人は多い。その理由を考えてみた。3つのファクターがあるような気がする。真善美が含まれた芸術性、大衆にも楽しめる芸能性、泣いたり笑ったりさせる芸、ではないだろうか?ここで芸術、芸能、芸という言葉に共通する「芸」という漢字について説明しよう。通常用いられる「芸」と旧字体とされる「藝」だが、両者は本来は関係がなく、違う字であった。日本に入ってから混同されてしまったのだ。「くさがんむり」がついているので、植物に関係していることは推測できるだろう。芸(ウン)は植物の名前を表す。これは良い香を持つ植物で、生活の中では、その香りを虫除けの目的に使ってきた。特に、大切な書物の紙が虫に喰われないように、この植物の香りを重宝したのだ。代表的な単語には、芸亭(ウンテイ):日本最古の図書館、芸閣(ウンカク):中国で宮中の蔵書、などがある。

 一方、藝(ゲイ)とは、「草や木を土に植えて、育てること」である。これから派生して、「心に学問を与えて人を育てる」という意味に発展した。たとえば、六藝(リクゲイ)という言葉は昔から知られている。礼・楽・射・御・書・数の6項目を示す。それぞれが、作法・音楽・弓術・馬術・文字・算数に相当する。この順序に注意を払ってみると、まずは作法、次には音楽、となっていているのが興味深い。これに関係あるのが、孔子の「礼楽主義」である。礼とは礼儀作法、楽とは音楽。孔子は、感性にも優れ、琴の名手として知られていた。一つのエピソードを紹介しよう。ある日、招かざる客が孔子の家を訪問した。弟子が「孔子様は今留守にされています」と返事。客は「それでは、後日参ります」と玄関を出ようとした。そのときに、奥の座敷から、達人がつま弾く琴の素晴らしい演奏が聞こえてきた。客は、孔子の心の内を推しはかり、再び訪問しなかったと伝えられている。孔子が道徳の芽を育てた中国から、様々な文化や慣習が日本へ入ってきた。日本の音楽の歴史をひもとけば、諸外国とまったく異なる特徴がある。ヨーロッパと異なり、純粋な器楽曲がほとんどないことだ。歌舞伎や能、文楽など、日本の伝統音楽・演劇に、ほとんど認められる3つの要素。語り、音楽、舞である。ポロロンと切ない音色を奏でる琵琶に、平家物語の語りや仕草が加わって、人々の涙を誘う。民衆はこれらの総合芸術・芸能に触れて、泣き笑い、日々の苦しい思いを発散してきた。この数百年の間に、日本の音楽や芸能は融合したり、分かれたり、新しく生まれたり、発展してきたのである。

 さて、語りに関するものとして、日本語の変遷について少し触れてみよう。まずは、クイズから。次の文章の意味がわかるだろうか?「母は、最初パパだった。」これがわかる人は、相当な博識である。赤ちゃんが発する言葉の中で、出しやすい音は、唇音のp、m、b音なのである。その中でも、一番最初に出る音は、破裂音のパ行であり、その次にマ行になる。だから、赤ちゃんが最初にしゃべるのは「パパ」、その後「ママ」、「ババ」になるという。それでは、次に移ろう。「ハヒフヘホ」と声を出して読んでほしい。さらに、口の中に、人差し指を差し込んだままで「ハヒフヘホ」と。フだけは、うまく発音できないはず。フは、わずかに上下の唇が触れるからである。だから、huではなくfuと書く。医師であったヘボンが残してくれたヘボン式では、ha hi fu he hoと記載法される。実は、千数百年の時を経て、日本人の発音は変わってきている。「十」という漢字で説明しよう。中国から日本に入ってきたときの発音は、ジップ(jip)であった。日本語には子音で終わる音はないので、ジプ(jipu)となる。その後、唇をあまり使わない楽な発音に変わってくると、p音から次第にf音になり、ジフ(jifu)となる。その後ジウ(jihu)となり、唇を動かさず長音化してジュウ(jiu)となった。すなわち、jip→jipu→jifu→jihu→jiuと発音が変わってきたというわけ。「十」はジューと発音するが、ジッと発音する場合もある。ジューと発音するのは、十人、二十枚、三十円などの場合。それでは、試しに、ジューと長く伸ばして、次の単語を発音してみよう。十本,二十軒, 三十冊、四十回, 五十点。何となく違和感を感じるだろう。後の発音がカ, サ, タ, パ行のときには、ジューではなくて、ジッと読むのである。だから、十本はジッポンと読むのが標準語。ジュッポンと発音している人は、いささか「訛っている」ので、ご注意を!?

 このように、生活やコミュニケーションが変わるように、発音も変化する。今でも、高齢者の中には、学校を「グワッコウ」と発音する人も見かけるだろう。しかし、すぐ次の世代には、すでに「がっこう」となっている。言葉は生きている、発音も生きているのである。以上の変遷を考えると、フランス語にはh音がないので、一番進化した言葉なのかもしれない。あまり唇を動かさず、力をいれずに楽にしゃべられる言語なのだろうか?私たちは、産業革命以降、生活を豊かに楽にさせてきた。今はIT革命の時代、通信が速く楽になった。漢字を含めて言語も楽な方向へ変遷をとげ、1000年後には、日本の「読み書きそろばん」は、驚くほど変わっているかもしれない。

 

 応援団は集団催眠

 「126」という数字が、ラジオから流れてきた。私は糖尿病のことと直感。最近、糖尿病の基準が変わり、診断の値が140から126mg/dlになったのだ。「早い時期に糖尿病を見つけて、合併症が出てくる前から治療するためですよ」と話をしている自分の姿が、瞬時に思い出されてきた・・。しかし、どうも事情が異なるようだ。「9勝1敗のぺースなら、126勝14敗だー」。朝日放送ラジオの道上洋三アナウンサーの声だ。25年にわたっておはようパーソナリティを担当している超有名人。朝日放送テレビでも歴史街道を担当し、落ちついた声に馴染みがある人もあるだろう。しかし、野球の話になると、トーンは上がり機関銃みたいにポンポンしゃべるスピードもアップ。絶叫することもたびたび。阪神タイガースの熱烈なファンの一人だ。長年続く彼の応援コメントによって、タイガースファンになるように洗脳された人々も多いだろう。

 中日ドラゴンズの監督だった星野仙一氏が阪神タイガースに移った。ストーブリーグでは様々な話題を提供し、オープン戦では高い勝率。でも、ペナントになれば阪神はいつもの指定席、と思われていた。ところがどうだ、まさに青天の霹靂、4月の時点で阪神が独走している。いったい誰が、こんな展開を予想できただろうか?阪神が勝つたびに、翌日の朝、道上氏の歌「六甲おろし」が電波にのって関西一円を包み込む。その歌を紹介しよう。正式の題名は「阪神タイガースの歌 六甲おろし」である。

1番:六甲颪(おろし)に 颯爽(さっそう)と蒼天(そうてん)翔ける 日輪の青春の覇気 美しく輝く我が名ぞ 阪神タイガース・・

2番:闘志溌剌(はつらつ) 起つや今熱血既に 敵を衝(つ)く獣王の意気 高らかに無敵の我等ぞ 阪神タイガース・・

本歌の作詞は佐藤惚之助、作曲は古関裕而で、歌は立川澄登/中村鋭一。歌詞は文語調であるが、なかなか良いイメージだ。古関氏は「君の名は」や「東京五輪のオリンピック・マーチ」などに加えて、巨人の「闘魂こめて」も、中日の「ドラゴンズの歌」も作曲していたのである。そればかりか、早稲田の「紺碧の空」、慶応義塾の「我ぞ覇者」まで作り、歴史に残る仕事をされた。ところで、六甲といえば私には思い出がある。医師になった後にECFMGを知った私は受験してみた。医学部門は一度でパスしたが、英語部門は難しかった。聞くと英語圏の人でも簡単には通過できないというレベル。それでもチャレンジの気持ちで、TOEFLを受けに行った。場所は、六甲の高台にあったカナディアンアカデミーという大学。当時は移動手段が不便で、午前1:50分の徳島港発のフェリーに乗船し、4:40分に和歌山港に到着。朝5時の始発の列車に乗り、大阪を経由して神戸まで数回行ったことが懐かしい。真冬の早朝に会場へ到着。中庭のベンチに座って、英語のテープをウォークマンで聴いていた。外気温は氷点下だったが、私の心は熱く燃えており、寒さなどは何ともなかった。運良くTOEFLで593点を取得でき、米国のfamily practice residency programで臨床研修できたのは、私にとって一生の財産になった。時間的な制約がある状況で、寸暇を惜しんで英語をよく聴いた。自家用車にも短波用のアンテナをつけるなど、いろんな工夫を楽しんだ。TOEFLの英語はとてつもなく速い。リスニングの際には、目を閉じて極限まで集中。この道を極めると一種のスポーツの勝負に近い感覚に感じた。阪神が勝つとファンは喜び負けると悲しむ。でもその程度が極端だと感じるのは、私だけではないだろう。9勝のあと1敗した時にさえいつものようにメガホンが空を舞っていた。関西には、神戸ブルーウェーブや近鉄バッファローズもあるがその中でも阪神ファンには違いがある。

 Quality of Life(QOL)の観点から考えてみた。私が思うに、応援歌の「六甲おろし」が大きく関与しているようだ。阪神タイガースがサヨナラで勝ったとき、私は甲子園球場にいたことがある。その騒ぎといったら、言葉でなんか説明できない。「六甲おろし」が始まると、一斉に5万5千人が合唱。歌に、手拍子に、足踏みにと、球場全体がうなりをあげ、地響きが起こる。これは、一緒に歌うという行動によって、ユングが唱える共通の潜在意識レベルで心が開き、お互いの心が交流してくるのだろうか。確かに、歌を一緒に斉唱したり、ハモッたりしたときには、一体感や気持ちよさを感じられる。合唱の経験がある人は、あの「ゾクゾク」する感動を実感できるだろう。しかし、言葉でうまく説明できないので、経験のない人にその喜びを伝えることは難しい。阪神が勝つと、一緒に歌を歌い、勝利に浸ることができる。日常のしんどい仕事やいろいろなストレスから解放され、自分の夢を阪神タイガースの選手や球団の勝利に託することができる。そして、勝利の雄叫びである「六甲おろし」に酔える状況は、一種の集団催眠状態に近いものがある。一度、あの味を味わうと、麻薬みたいに、もう抜け出せなくなるのかもしれない。

 大阪で人気がある歌のアンケート調査の結果がある。「大阪で生まれた女、悲しい色やね、雨の御堂筋、やっぱ好きやねん、浪花恋しぐれ、河内のおっさんの唄、大阪しぐれ、ふたりの大阪、月の法善寺横町、宗右衛門町ブルース、大阪エレジー、河内おとこ節、王将、たそがれの御堂筋、好きやねん、河内音頭、酒と泪と男と女、浪花物語、こいさんのラブコール、浪花節だよ人生は」など。やはり独特の文化圏で、好まれる音楽にも特徴があるようだ。演歌が多く、しっとりとした曲も多いが、河内音頭やだんじりの情景を感じさせる曲もある。題名には、大阪、御堂筋、法善寺横町、宗右衛門、などの大阪の地名も多い。ほかには「かに道楽」のCMソングもある。「とれとれ ぴちぴち かに料理・・・」と、耳覚えのあるメロディ。作曲者は「なにわのモーツアルト」ことキダタローで、中村鋭一との交流もよく知られていた。音楽だけでなく、言葉についても、関西は東京都と違う言語圏になる。長年人気タレントのトップは、明石さんま氏であり、彼の大阪弁はとてもソフトに聞こえるという。

阪神が快進撃を続けている平成14年4月に、関西で人気の映画があった。もと巨人軍の長島一茂選手が主演を演じた「ミスタールーキー」である。常は目立たないサラリーマンが、甲子園の阪神の試合の時だけに、押さえのエースとして出てきて大活躍。一茂は顔を出さず、タイガーマスクと同じように、虎の面をかぶっている。そういえば、漫画「タイガーマスク」でも同じだった。日常の生活で注目されていない人が、どう猛な虎に変身して、悪者をやっつけるのが面白い。多くの人々が、タイガーマスクまたはミスタールーキーに自分を投影している。自分の代役として、ヒーローが活躍し、夢をかなえてほしいと祈っている切ない気持ちが伝わってくる。

 ここで、一人のヒロインを紹介しよう。道上氏が「六甲おろし」を歌うときに、一緒に歌っているのが、パーソナリティの相手役エミちゃんである。実は、彼女も歌手でCDをリリースしている。ただし、通常の音楽CDではない。小学生が習う「ににんが四、にさんが六」という、「九九のCD」だ。九九の言葉にラテン音楽のリズムが加わり、楽しく覚えられる、という代物だ。エミちゃんが放送で歌うと、みんな笑ってしまう。通勤で運転中の人が事故を起こさないか、心配だ。その理由は、彼女の音程が伴奏に全然合っていないから。逆に言えば、いつでも伴奏の音程が間違っており、伴奏が悪いのだ。そもそも、歌唱とは歌が主であり、伴奏とは歌に伴って演奏するもの。masterとslaveの関係なのだから。とにかく、彼女の歌声はすごーく人気がある。自信たっぷりに大きな明るい声で歌い、天真爛漫でかわいい。このスタイルの歌手は、日本で唯一エミちゃんだけ。Best singerではなく、only singerである。悟りを開いたブッダの言葉では、「唯我独尊」となる。エミちゃんの歌をきくと、自然と笑みが溢れてくるのは不思議だ。それに加えて、エミちゃんのボケとつっこみが絶妙で、天然ボケにもよく遭遇する。こんな魅力が、ラジオのファンにはたまらない。彼女の歌や雰囲気によって、人々がハッピーになれる。癒しの技をもった歌手であり、天使であり、巫女さんかもしれない。ただし、甘い物には目がなく、たくさんのケーキをペロリと平らげるという。将来は太りすぎや糖尿病に気をつけて、空腹時血糖が140mg/dl以上にならないようにと、糖尿病学者の私は祈っている。

 

 手足を使って脳若く

 平成14年夏は、とてもスリリングだった。私の両手両足が最大限に刺激されたからである。手足が動けば脳もよく働く。さらに脳から手足に命令が伝われば、可能性も広がっていくだろう。平成14年7月には、スキー選手とスケート選手が一緒に競う「全国スラローム大会inモンデウス」が開催された。場所は岐阜県の飛騨高山で、モンデウススキー場に隣接した広い駐車場。やや斜面があり、路面は通常のアサファルト舗装だ。競技種目は「ジャイアントスラローム」と「スラローム」の2つ。これらは、かつてスキー競技で使われていた用語の「大回転」と「回転」にほぼ相当する。雪面をスキーで滑る代わりに、路面をインラインスケートで滑るのだ。いずれも、赤と青の旗門を通過し、タイムを競うもの。スキー選手は夏のトレーニングとして、インラインスケートを取り入れている。スキー板で滑るイメージで、滑降する。その際には、パラレルターンのように、両足を揃えている。一方、スケート選手の動作は根本的に異なる。滑るときは通常片足ずつ。アイススケートのスピード、フィギア、ホッケーのいずれの競技でも、片足で滑るのが普通だ。

 私は今までにスラローム競技で運良く入賞歴がある1)。ジグザグには滑るが、旗門がそれほど左右に振られていないので、片足で滑走できた。しかし、今回の大会では、左右への振り幅が大きく、片足で滑ると曲がりきれず、間違いなくコース外に飛び出してしまう。両足を揃えて滑り、スキーのようにテイルを横滑りさせたり、減速しなければターンできない。タイムを目指せば曲がれない、ゆっくり曲がればタイムが遅くなる。この兼ね合いがポイントだ。もうひとつの課題は、可倒式のポールを、いかに攻めるかである。スキー競技を映像で見ると、旗門ぎりぎりに内側を通過している。身体を倒して膝や上肢でうまくポールを押し倒し、できるだけ最短距離を滑っているようだ。私は、スケートとスキーの動作をビデオで研究した。スケートのターンでは、外側の足で体重を支え、身体の重心をかかとから足先に移動し、最後にぐっと押さえて蹴るのである。一方、スキーのターンでは、両足が微妙に関わり合う。最初、体重の重心は谷足の上にあり、曲がりながら重心が次第に山足に移動。スキー板のインの部分で雪を削り取りながら、方向を変える。近年は、先端とテイルが丸くなった「○○スキー」に変わった。軽い力で楽にターンができるのだ。スノーボードにも応用され、種目に応じて4種類あるという。なんと、スピード用のアイススケートの刃でも、先端と後ろが幅が広く、中央部が薄い特殊の刃が研究されているとつつあるというのは驚きだ。インラインスケート靴で両足を揃えてターンをする場合、どうすれば最大限に力を有効に使えかを考え。私見だが、1)左右の足の両方、2)かかととつま先の両方、3)外側エッジと内側エッジの両方、これらを無駄なく組み合わせたら、相乗効果が得られないだろうか。次に大切なのは、可倒式のポールに対する手や前腕、上腕、肩の使い方。私は路面の上に小さなパイロンを置き、その上に旗がついたポールをイメージして、手ではらう動作をしながら滑る練習をした。手の動きに注意を向けると、足の動きを忘れる。かかとやつま先など下肢に意識を向けると、上肢の動きを忘れてしまう。難しかった。

 大会の当日。この大会には、国体のスキー代表選手など150名が参加。タイムの測定は、国際大会でも使用しているシステムで千分の1秒まで計測できる。オリンピックのスキー競技のスタートと同様に、ピッピッピ、ピーの音でスタート。ジャイアントスラロームの1本目。スタートラインから12mで1本目の関門だ。最初の5本目までは楽だった。6本目から急ターンで、ブレーキをかけなければ曲がりきれない。ポールに激突しそうになりながら、どうにか走破した。各部門のトップタイムは、一般男子が25秒台、高校生男子が26秒台、シニア男子が27秒台、一般女子は29秒台。私は28秒台で、シニアで2番目の成績だった。2本目を滑った合計タイムで、私は3位に入賞できた。もうひとつのスラローム競技では、急ターンの連続。未熟な私は焦って、すぐに頭の中は真っ白。スタート直前に考えていた注意点などは、一発に吹っ飛んでしまった。急ブレーキを頻回にかけながら、ようやく滑り終えた。手や足のリズムは、全くばらばら。スキー選手はストックを使い、柔らかい膝の動きでしなやかに滑降していた。この競技で私は10位で、総合7位となった。私は結果には全くこだわらず、自分なりに工夫した練習を楽しんだ。それにしても、手と足とに意識を集中させるのは、至難の技と感じた。

 さて、次は8月の話。徳島では15年前からジャズストリートが開催されてきた。徳島市の歓楽街には、ジャズスポットが多く、この夏は12のライブハウスで開催された。各会場とも熱気ムンムンで、阿波踊りの前奏曲として、暑い夏をさらに熱くフィーバーさせたのである。以前から、友人とDr. B & Brothersというジャズバンドを組んでいる。「今回はタップダンスと音楽というテーマでどうだろうか」とメンバーに相談し、スケジュールを調整していた。すると困ったこととして、どうしてもドラマーが都合がつかない。今回はあきらめようかな、と思ったとき、ハタと気がついた。キーボードができる人がいるので、私がドラムを叩けば、この問題は解決!天才バカボンのように「それでよいのだ!」。とても単純な思いつきだが、本当に大丈夫か?ただちに友人に相談し、教えてもらうことに。ただし時間がないので、まず曲を決定し、それを目標に、最短時間で恥ずかしくないレベルになるように指導してもらった。概して、右手は一定のリズムで、シンバルを叩く。左手は、いろいろな装飾的な音を入れたりする。右足は平易に言えば、大太鼓の担当。左足がとても重要だ。シンバルが二枚上下に組み合わさった「ハイハット」という名前の楽器がある。足でペダルを踏むと、シンバルが上下に動いて音が出る。この楽器が、リズムを刻むのに主要な働きを演じる。4拍子の曲なら、2拍目と4拍目にカシャという音が必要だ。今回のコマンドは、短時間で上手になれ、と「ミッション」が下されたようなもの。[MissionImpossible]ではみんなが困ることになる。どのように練習していくか。数時間ドラムを叩き続けても、指や手を痛めるだけ。足に靴擦れができるように、指にスティック擦れを起こしてしまう。英語の学習や楽器の習熟法を参考に、15分間ずつ集中し、1日に何回も練習を試みた。2本のスティックをいつでもどこでも持ち歩いた。時間をみつけては、分厚い電話帳を机の上に置いて、スティックの基本練習。最初は、思うように叩けない。どうしても微妙にリズムが狂う。しばらくすると、スティックが手になじみ、リズムのずれが消失し、次第に上達してきた。右手と左手だけなら、割合簡単である。しかし、左足を2拍目と4拍目に踏み込み、右足を曲に応じて変えるのは容易ではない。ほとんど無意識でも足が動くようにしておかないと、止まったり、表と裏のリズムが逆になってしまう。どうすればよいか。思いついたのが運転中の時間。両手はハンドルに、右足はアクセルに必要だが、オートマチック車のため左足は遊んでいる。これを使わない手はない。ジャズを聞きながら、左足でずっとステップを踏んでいた。その結果、無意識で左足が貧乏揺すりをすることもあった。

 今回は、タップダンサー4人の踊りと歌と音楽というジョイントコンサート。一緒に練習するプロセスが大切で、ドラムという視点から音楽を考える機会を得て、とても勉強になった。基本リズムは同じでも、歌やサックス、キーボードの旋律がちょっと変化すると、ドラムも対応せねばならない。旋律は同じでも、踊りの状況に応じて、ドラムが急に音を止めるブレイクをする場合もある。視野が広がった経験となった。それにしても、4つの手と足を使うドラムというポジションは、凄いと感じた。私はまだまだ初心者で、その奥深さはまだ理解できるレベルにはない。でも、新しい楽器へのチャレンジは斬新な体験で、楽しかった。両手でスティックを叩き、両足でリズムをとっていれば、まず、痴呆にはなりたくてもなれないと思う。大脳にスリリングな刺激が伝わっていくのが実感できる。惚(ぼ)けることなく、音楽に惚(ほ)れることができるドラマーとは、本当に素晴らしいものだ!

 

 キング・ゴジラとゴジラ

 先日、アメリカ映画「キング・コング」を見た。シリーズの第1作で、公開は1933年(昭和8年)という昔のこと。SFX怪獣映画の原点と言える作品で、映画史上に残る名作である。今の時代に見ても全く飽きさせず、手に汗握る映画だ。日本ではカラーのリメイク版(1976)の方がよく知られている。両方を見比べると、後者のほうが映画技術レベルが高いのは確かである。しかし、今から約70年も前、CG技術など何もない時代に、これほどのレベルの特殊撮影には、全く驚かされてしまった。エンパイア・ステートビルが建てられた年に、あれほどの斬新な発想で作られたのには、脱帽してしまう。

 物語のあらすじは、映画の撮影隊が人跡未踏の孤島にやって来る。そこで、原住民が神と崇めている身長18メートルの巨大なサル「キング・コング」に遭遇するのだ。撮影隊は、数百人の男達と紅一点のアン。船の甲板で夜に涼んでいたときに、アンが原住民にさらわれる。ただちに、男たちが武装して助けに向かうのだ。船の中で料理の仕事のみをして戦いなどをしたことがない中国人でさえも、「僕も助けに行かせてほしい」と志願する場面は、印象的であった。たった一人さらわれただけでも、間髪を入れず武装してすぐに行動を開始するのが米国人なのだろう。取り戻すために、犠牲になる人が少なからず存在してしまう。しかし、狩猟民族の彼らにとっては、これが通常の思考と行動パターンなのだろう。もし彼らが農耕民族の日本人であれば、どのように対応するだろうか。生け贄にされる恐怖で泣き叫ぶアンに対して、キング・コングは恋心を覚える。間一髪でアンは助け出され、コングも生け捕りにされた。コングはニューヨークに連れて行かれて見世物にされるが、カメラのフラッシュに驚いて鎖を引きちぎって脱走。ニューヨーク中を縦横無尽に暴れまわるのだ。恋するアンを片手にニューヨークのエンパイアステイト・ビルのてっぺんによじ登る。そして、襲いかかる戦闘機を叩き落とすコングの勇姿が印象的だった。当時、大不況で落ち込んだ人々を勇気づけ、一大センセーションを巻き起こし、興行収入の新記録を樹立したという。当時、この記録は「風と共に去りぬ」(1939)まで破られなかったのだ。そのストーリーや映像については、従来高く評価されている。私は、今回、この映画の音や音楽に注目してみたい。コングの鳴き声は、ライオンとトラの鳴き声を録音して、それをスローで逆再生したものを合わせて製作されたという。

 音楽を担当したのは、マックス・スタイナーという作曲家である。「風と共に去りぬ(Gone with the Wind)」の「タラのテーマ」はあまりにも有名だ。ほかには「 カサブランカ(Casablanca)」(1942年)の音楽を担当している。この映画では、当初ロナルド・レーガン(後に合衆国大統領)が予定されていたが、結局イングリッド・バーグマンとハンフリー・ボガートが演じ、有名な「時のすぎゆくままに(As Time Goes By)(Herman Hupfeld作曲)が使われている。また、映画「避暑地の出来事(A Summer Place)(1959)の中で「夏の日の恋」を作曲するなど、ハリウッドの黄金期を代表する映画音楽家といえる。1929年から1965年に至る37年間に何と350本近い作品を手がけて、アカデミー賞に18回もノミネートされ、3回受賞しているという凄さなのである。彼はなぜ、このように人の心をとらえる音楽をプロデユースできるのか、と私は疑問に感じた。どのようなバックグランドがあるのかを調査したので、彼の英文履歴からポイントを抜き出してみよう。1888年にウィーンに生まれ、16歳のときウィーンの音楽芸術院で1年間だけ音楽専攻コースで勉強。20歳までは劇場で指揮と作曲に従事していた。その後1914年にアメリカに移住し、ブロードウェイでミュージカルの指揮と作曲を担当している。1929年になり、ハリウッドにやって来て、彼の非凡な音楽性が花開くのだ。彼の音楽はダイナミックでお腹に衝撃を与える(dynamism and visceralimpact)と評されている。彼の訓練(discpline)の流れの中で、やはり劇場や演劇という現場で経験を積んでいることがポイントであると思う。音楽大学で、音楽学や理論などを学ぶことも確かに大切である。しかし、人々の反応を身近に感じながら、時代の流れをつかんでいくのが、大切であるのかもしれない。

 これとよく似た作詞家が日本にいる。なかにし礼氏である。彼は大学生のとき、シャンソンの歌詞を日本語に訳していた。銀座で歌われる彼の訳詞が、お客に受けるか受けないか、現場でずっと人々の反応を肌で感じ取っていた。だからこそ、彼の歌詞には、日本人の琴線に触れる何かがあり、曲の魅力と相加相乗効果で、名曲が生まれるのであろうと思われる。

 さて、この映画では、ほとんどの場面でBGMが使われており、その多くが現代音楽である。古典やロマン派の音楽とは異なって、複雑な音程を使っている。ここで、音程について平易に解説してみよう。ピアノの鍵盤でドと1オクターブ上のドの二つを同時に弾いた場合、振動数の比率は、1: 2となり共鳴する。ドとソなら2: 3、ドとファなら3: 4となる。この3者はそれぞれ、完全8度、完全5度、完全4度と呼ばれる音程の間隔で、落ち着いた気分にさせる。鍵盤のファとソの間には、黒鍵のファのシャープ(F#)がある。ド(C)とファ#(F#)を同時に鳴らすと、聴いている人はとても不安定に感じる。宙ぶらりんで、じっとしておれない、いらいらしてくる気持ちだ。CF#の二つの音から、シ(B)とソ(G)の二つの音に変わることで、不安的さが解決されて、心が落ち着いたと感じるのである。

 この映画では、キングコングや爬虫類、大蛇などが闊歩するジャングルを探検していく。とても不安な気持ちだ。その際に、このCF#の音程を含む和音を多用していた。当時の音楽であるから、現代音楽とはいっても、まだわかりやすいほうだ。それでも、映画をみている人を、映像と音楽で、よけいに不安な気持ちにひきずりこんでいくのには、十分な効果があると思われた。さらに、映像に加える音楽手法も使われているようだ。勇ましく行進するシーンであっても不安をかもしだす音楽を流している。十二の音を乱数的に不規則に使用する手法や、少し気味が悪い残響効果を加えたりしている。このように、音響を効果的に使うことにより、心理的にも恐怖感を増強させていたのであった。キングコングと同様に、日本の特撮映画も元気で健在だ。ウルトラマンもあるが、「ゴジラ」シリーズもある。ゴジラの第1作は1954年のモノクロ作品から始まった。第6作目の怪獣大戦争(1965)では、X星人なる異星人が登場。X星は新たに発見された木星の衛星という設定だ。X星人は、すべてを数字で表現する特徴がある。アナログでなくてデジタルだ。たとえば、キングギドラを「怪物0」というなど、一見進みすぎた科学文明を有している。また、すべての女性が同じ顔であり、おそらく「クローン人間」なのであろう。第17作の「ゴジラVSビオランテ」(1989年)でも、バイオテクノロジーが使われている。ゴジラの敵であるビオランテは、人間の細胞を融合させたバラの細胞に、さらにゴジラの細胞を融合させて出来上がったものだ。本作の監督は、大森一樹氏。もともと映画好きで、「ヒポクラテスたち」公開の1985年に京都府立医大を卒業したが、医者の道を捨て、そのまま映画監督の道へ進んだ。単なる病気や病人ではなく、国のレベルで診断と治療を行い、手塚治虫先生のように、一介の医者よりももっと大きな使命をもって、仕事をしているように思える。シリーズ26作目となる「ゴジラ×メカゴジラ」が200212月に公開される。ゴジラと巨人軍の「ゴジラ松井」である松井秀喜選手との共演が実現されるのだ。すでにジャイアンツ球場で、映画初出演の松井選手が本人役を演じ収録された。「映画のゴジラもアメリカでプレー(演技)をして、全世界でホームランをかっ飛ばした。松井選手にもアメリカで大きなホームランをたくさん打ってほしい」と、「メカゴジラ」の全米公開に向け、大きな期待が寄せられている。2003年には、日本のゴジラはアメリカに上陸し、ひと暴れもふた暴れもしそうだ。多くのファンが期待し、私の心はわくわくしている。

 

 ゆっくり詠んで考えよう

 平成15年2月、新宿の紀伊国屋ホールで、六作品日替わり連続上演が行われた。演劇倶楽部「座」による「詠み芝居」である。泉鏡花、芥川龍之介、浜田広介、伊藤左千夫、宮沢賢治、上田秋成という文豪6人の15作品を、連日6日にわたって上演するというものだ。ちょうど私が観劇した第5日目は、宮沢賢治の名作シリーズの日。「グスコーブドリの伝記」、「セロ弾きのゴーシュ」、「猫の事務所」、「注文の多い料理店」の4作が、舞台用に構成されたものだった。朗読者はステージの端で、賢治の原作を詠む。淡々と読むこともあれば、感情を込める場合もある。俳優は舞台上で、台詞をしゃべりながら、自然な演技を続ける。劇が始まった後に興味深い点を見つけた。それは、人形を活用すること。登場人物の少年と少女を二人が演じる際に、小さな人形を使う。人形の頚部~頭部を後ろから左手で支え、人形の右肘を右手で掴んで動かす。すると、人形がうなずいたり、首を横に振ったり、右手を振ったりするなどの動作ができる。遠くを眺める場合、人形の右手を額の上にかざして、顔をすこし上方に向ければよい。実は、この人形は普通の人形ではない。その顔には、目がなく表情がないのである。初めに顔を見たときには、私は驚いてしまった。これと逆の人形を直ちに思い出された。腹話術で知られる「いっこく堂」だ。彼の素晴らしい技術と演技を目のあたりにして、私は感服してしまったことがある。いっこく堂の口元は全然動かない。特異なキャラの人形は、大きな目をくりくりと動かし、あまりに印象的過ぎると思う。また、伝統芸能の一つ、人形浄瑠璃の舞台の情景も心に蘇ってきた。着物を羽織った大きな人形の顔や形は、役柄に応じてカラフルで特徴的。能や狂言で使う仮面にも、様々な表情がある。「能面のような」という表現があるが、見る角度によって、能面は笑ったり泣いたりするのだ。人形とは、人の形をしたもの。日本各地には、顔がのっぺらした人形もあると聞く。もしかしたら、顔とは決められたものでなくて、各自が心の中でイメージし作り上げるものかもしれない。

 私が注目したのは「セロ弾きのゴーシュ」。ゴーシュは下手なチェロ(cello)弾きで、いつも楽団の足を引っ張っていた。しかし、動物たちはゴーシュのセロを聴いて病気を癒すことができた、という物語。音楽療法の分野では必ず紹介されているもので、是非ともいちど読んで頂きたい。舞台に登場するチェロは、本当の楽器ではなく、布で作った可愛い縫いぐるみ。あたかも、毛並みがふさふさした茶色の動物のようで、ゴーシュの左手と一体化している。ぶらんぶらんと揺れる姿が、何とも微笑ましく感じられた。本劇で、音楽を挿入する手法は斬新だった。通常なら、クライマックスのシーンでは必ず音楽が加わる。ドラマでも映画でも同様だ。音楽の併用により、心理的に相加相乗効果が得られてくるからである。しかし、本劇では、淡々と進む朗読や言葉によるコミュニケーションが主であり、演技や仕草は従であった。この状況に、わざわざ音楽が分け入ってこない。意図的に邪魔をしていないのだ。だからこそ、静かな中にも、言葉に重みを持たせて、心にぐっと迫ってくるのではなかろうか。音楽が奏でられるのは、場面が変わり舞台が暗転するとき。音楽を担当するのは、キーボードとパーカッション、ヴァイオリンのわずか3人だ。舞台の後ろのスクリーンが半透明になっていて、演奏する彼らの姿が、暗闇の中でぼーーと浮き上がる。ほとんど真っ暗だからこそ、音楽に神経を集中できたのかもしれない。

 このたび、いろいろと観察しながら感じたことがある。舞台上には、大道具など大がかりなものはほとんど見当たらない。椅子や机、台、ドアなど若干の小道具があるだけ。しかし、大きなウェイトを占める言葉と若干の演技によって、観ている人々の心の中に、大きな世界が広がっていったことだろう。本劇はいくつかの物語を同時並行させるため、演出には工夫がなされていた。しかし、台本を作り上げる際には、原本の文章には手を加えず、文学者の言い回しを忠実に守っているという。舞台効果を狙った誇張表現や演技はみられない。演劇倶楽部「座」を主宰し演出を担当している壌晴彦氏は、「かつてこの国が持っていた芳醇な言葉、艶冶な言葉、力強い言葉を劇場空間に解き放ち、私たちの、みなさんの内なる言語の豊かさを回復したい」と述べている。言葉とは、本来、文化の礎になるものだ。近年、かつてのゆったりと深遠な文化から、せわしく軽薄な文化になりつつあるような気がする。これに伴って、日本語という言葉も危機的状態になっていないだろうか。みかけ上、言葉が乱れているのは誰もが感じているとは思う。しかし、もっと根源的なものとして、内容を伴わない強調語や刺激的な感嘆詞が増え、考えることを忘れているのではないか、とさえ感じたりする。そもそも、日本語ほど、心理描写や婉曲表現に優れ、含蓄を持つ言語はなかった。源氏物語から1000年。わび、さび、に加えて奥ゆかしい表現をこなす土壌や文化があったはず。以前の大衆小説においても、表現には深みがあり、英語に訳そうとしてもできなかった。読者が文字を読んで自分で考え、各自がイメージを膨らませていたのであろう。しかし、現代の作家が書く文章は薄っぺらく、簡単に英訳できるという。

 いま、日本語ブームが到来している。先駆けとなったのが、齋藤孝氏の「声に出して読みたい日本語」。「生涯の宝物になる日本語~鍛え抜かれ、滋養にみちた言葉を暗誦・朗誦すると心と身体が丈夫になる」とあり、私も同感だ。国際的には、曖昧模糊とした日本語が駄目と言われる。英語を学ぶと、欧米の文化や考え方が次第に身についてくる。次第に、東洋と西洋とが融合された尺度で、考えるようになる。しかし、考えるといっても、良いか悪いか、プラスかマイナスか、好きか嫌いか、人や物の価値を、見かけで一瞬に判断してしまう、ということが少なくないようだ。これには、テレビの普及が関係あるように思われる。テレビ放映が始まったのはわずか50年前。NHKのプロジェクトXでも紹介されたので、ご存じの方も多いだろう。映像の発展の歴史は素晴らしい。今ではBSCSもあり、衛星中継で世界はいつでも目の前にある状態である。注意すべきことがある。映像に慣れると、何も考えずにそのまま受け入れてしまう。考えるという習慣がしだいになくなる可能性がある。かつて、テレビが急激に普及しだしたときのこと。評論家の大宅壮一氏が、「一億総白痴化」という言葉を使って、日本人の思考パターンに与えるテレビ文化に懸念を表明したことがある。その予言が、まさに適中しているようだ。これは、ある意味で、日本文化と言語が重篤な病気になっているのと同じである。明らかな病原体なら抗菌薬で対応できるが、敵の姿や形がはっきりしない。生活習慣病と同じように、各自で価値観が異なるので特効薬はなく、適切な対処がうまくできないのではないだろうか。

 さて、話は戻るが、賢治はユートピアを目指し、人々に農業の手ほどきをしながら、物事を深く考え膨大な著作を残した。図書館で彼の全集をみると、ワープロがなかった時代によくこれほど書き綴ったものだと、と驚かされる。また、研ぎすまされた感性で、賢治は音楽にも造詣が深かった。「銀河鉄道の夜」には、「あのなつかしいセロの、しづかな声・・」と記している。作詞や作曲をした歌も数多く残されており、「星めぐりの曲」、「牧歌」、「月夜のでんしんばしら」、「イギリス海岸のうた」、「剣舞の歌」などが挙げられる。この中で前者3曲を収録した楽譜集が、このたび出版された1)。「音の宝石箱 ~宮沢賢治「星めぐりの歌」~ 」である。本譜にはコンパクトディスク(CD)が添付されており、賢治の3曲や、筆者が演奏した癒しの曲などを聴取できる。賢治や音楽療法についての概説もある。機会があれば、いちどお聴きいただければ幸いである。賢治の言霊や音楽が、あなたの心の中に小宇宙を誕生させてくれるかもしれない。

資料 1)呉竹英一. 音の宝石箱 ~宮沢賢治「星めぐりの歌」~ .ドレミ出版、東京、 (20数曲を含む音楽CD付き楽譜集, 20021130日発行, 1800)

 

 人々の心に花を  

 ♪川は流れて どこどこ行くの 人も流れて どこどこ行くの・・♪喜納昌吉さんが歌う「花~すべての人の心に花を~」。私が大好きな曲だ。心にジーンと語りかけてくる。手にする楽器は、ギターだったり、三線だったり。ムーディな曲もあるし、刺激的なロック曲も。「「ハイサイおじさん」が始まると、自然と聴衆の手足が動きだす。まもなく、音楽のパワーで、みんなが踊りだし、乱舞の渦へ・・。ここは、那覇市・国際通りの真ん中にあるライブハウス「チャクラ」。毎晩、沖縄の歌と踊りが楽しめる。民謡は通常、ファとシが抜けた「ドレミソラ」という音階が多い。一方、沖縄の旋律では、レとラが抜けて「ドミファソシド」という音階になるのが特徴である。民族衣装に身を包んだ艶やかな女性が運んできたのが沖縄特産の泡盛。そもそも、15世紀に琉球王朝時代にシャムから伝わったという酒(焼酎)だ。まろやかで口触りがよく、ついつい飲み過ぎてしまった。でも大丈夫、あれほど踊って発散し、音楽運動療法を実践したからだ。当地を訪れたのは平成15年5月8日。日本心身医学会が沖縄で開催されたからである。琉球王朝の子孫にあたる尚 弘子琉球大学名誉教授は、元副知事で、現在は沖縄県健康・長寿研究センター所長。尚先生は特別講演「Wellnessをささえる沖縄の食文化」の中で、100歳以上のCentenarianの数値(/10万人)を紹介した。全国vs沖縄において、男性は3.52 vs 8.18、女性は16.9 vs47.4であった。

 沖縄県人が心身ともに健康とされる因子として、1) Nature environment, 2) Ancestor worship, 3) Life is a treasure, 4) Food as medicine, 5) Relaxed daily life を挙げられた。

 沖縄料理の特徴は、「豚の鳴き声以外は全て利用する」と言われるほど、豚肉を多く使うことにある。しかし、その独特で工夫した調理法のため、余分な脂分が除かれるという。私は、このたび、ラフテー(沖縄風豚の角煮)やゴーヤーチャンプルー(ニガウリや木綿豆腐)、烏賊の墨汁(ンジャナバー)など、いろいろな沖縄の味を堪能できた。5月8日はゴーヤーの日として知られ、あちらこちらでゴーヤーの接待を受けた。

 さて、日本心身医学会や日本心療内科学会、日本バイオミュージック学会(現在、統合して日本音楽療法学会)などで長年御活躍されてきた先生がおられた。篠田知璋教授である。私は篠田先生から長年にわたって御指導を受けており、私事ではあるが、音楽療法に関わる経緯を若干、書き綴らせていただきたいと思う。私と音楽療法の出合いは、日本プライマリ・ケア学会の国際学会のとき。私には仕事が2つあった。一つは学会の歴史をスライドでプレゼンテーションすること。アナウンサーのように、流暢に説明できたと自負していた。しかし、漫談のようだった!?とお誉めの言葉を頂いた。もう一つの役職は宴会部長。国際学会のメインとなる懇親会で、ピアノ演奏や歌の伴奏をすることだ。特に緊張することもなく、気楽にシャンソンの伴奏などを受け持っていたのである。ちょうどそのとき、緊張の一瞬が訪れた。聖ロカ病院の日野原重明先生が私の肩をたたき、声をかけてくださったのだ。ECFMG資格を取得し、米国のレジデンシーで臨床研修をしている頃から御指導を頂き、心から尊敬申し上げている先生である。「板東君、ピアノ演奏の腕はなかなかのものですね。是非とも、日本バイオミュージック学会に入会しなさい」と。直ちに入会し、音楽療法を勉強し始めた。当時から親切に御指導くださったのが、篠田知璋教授である。聖ロカ病院でも診療されており、超多忙な日野原先生と密接に連絡をとって、日本の音楽療法の歴史を作り上げてこられた先生だった。日野原先生および篠田先生のお陰で、同学会の学術大会を徳島という地方で初めてお世話させて頂き、1999年6月の第20回大会を無事に終了することができたのである。音楽療法の社会的な認知を目指し、2001年3月下旬には、日野原・篠田両先生が厚生大臣に面会。

 同日同時間帯に隣室では、私と(社)全日本ピアノ指導者協会の吉岡明代新教育法開発委員が厚生副大臣に面会し、スライドを用いて半時間のミニレクチャーをさせていただいた。その後、2001年4月には、「音楽療法士が国家資格への方向に」という報道が全国紙の1面トップに掲載。両先生の御尽力で、近い将来に議員立法への動きが加速されるはずであった。しかし、同年9月の同時多発テロや内外の諸問題のため、多くの予定がやむなく延期になった。

 2003年4月下旬、ようやく国会内で音楽療法の展開が見られ始めたそのとき、中心となる篠田先生が急逝してしまった。日本の音楽療法界にとって誠に大きな損失である。5月2日に行われた告別式には、全国から多くの関係者が参列した。葬儀委員長の日野原重明先生は、40年以上の兄弟のようなお付き合い、音楽を愛し病める人への優しい眼差し、次の世代を育てる情熱、音楽療法界への多大な貢献などについて、お話をされた。その会場では、篠田先生が1年前の同日に作成した自作CD「私の音楽人生」(図)が流されていた。奇しくもこんなことになるとは、誰も予想だにしなかった。人々の心を捉えるお話ぶりとピアノの弾き語り。いま手許にあるCDを聴くと、先生のお姿が鮮明に思い出される。篠田先生は、音楽療法の概論についてお話をされるとともに、ピアノを優しく弾く。そのタッチは、人の心に柔らかく触れているかのようだ。弾き語りのお姿を拝見したときのこと。スピーカーのウーハーから出る低音がすべてを包み込むように、先生の大きな存在に、私たちの身体や心を委ねてみたいような信頼感を感じたのである。先生のお言葉と音楽により、クライアントは安らかな気持ちになったであろう。ホスピスにおけるボランティアの活動などもされ、病める方々を癒しておられた。あるとき、ゆったりした雰囲気のラウンジで、篠田先生から教えていただいたことを思い出す。「板東君、心身医学や心療内科は難しい内容のようだが、本当は簡単なんだ。人間と人間の関係で大切なことは、相手の立場になってみること。もし私があなただったら、If I were you、という視点で物事を考えてみることだ」、と。この原則は簡単だが、実行はそれほど容易なことではない。人と人から、国と国との関係にも通じる。国際社会の諸問題も、これに由来していないだろうか。話は戻るが、喜納さんは歌だけではなく、ずっと以前から平和へのメッセージを発信し続けている。現在、唱えているスローガンは、「すべての武器を楽器に」である。音楽に国境はない。人々は言葉は通じなくても、音楽という媒体で、相互に心を通わせられる。音楽家は世界をかけまわり、国際理解や協調を主張できる。そういえば、世界的な作曲家である坂本龍一氏も、メール送付の推進運動を、グローバルな規模で行っていた。世界の国々を直接的に動かすのは、確かに政治家である。しかし、草の根レベルでメッセージを伝えていく場合、立場にしがらみがない音楽家や芸術家が果たす働きは大きいと思われる。これらの音楽と医学の領域を包含する音楽療法界をリードされてきた篠田先生のお心は、多くのお弟子さんに引き継がれ、近い将来に、必ずや大きく花開くであろうと、確信している。

 ♪涙流れて どこどこ行くの愛も流れて どこどこ行くのそんな流れを この胸に花として 花として むかえてあげたい泣きなさい 笑いなさい いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

 

 目標を目指して

 空中で宙返りする板東選手!足に履いているのはインラインスケートだ。とうとう彼は、アクロバット・スケーティングにまで、挑戦するようになったのか?いや、違う、違う。テレビで見るような、かっこいい空中回転ではない。何たって、着地は、背中とお尻でごろんと受け身をしたのだから。この宙返り、私はしようと思ってしたのではない。実は、足がひっかかって、仕方なく三次元で派手な動作になったというわけ。

 平成15年7月、岐阜県のモンデウス位山で行われたインラインスケート・スラローム大会。全国から集まったスケートおよびスキー選手150名が、100分の1秒を競う。本大会はスキーの回転競技に似たもの。冬なら雪上に旗門を設置し、スキーでジグザグに滑リ降りる。今の季節は真夏。雪の代わりにアサファルトの上で、旗門を倒しながらインラインスケートで滑走するものだ。スタート地点では、オリンピックさながらの光景がみられる。選手がスタートするのは20秒ごと。5秒前から1秒間隔で信号音が鳴り、足元のバーを蹴って、約300mのコースに飛び出す。参加者の中で、シニア男子は20名。午前の部で私のタイムは41秒53でトップ、2番3番に約0.8秒の差だ4番以降は2秒以上離れている。十分に、足ごたえを感じた午前の滑走だった。午後のコースは、旗門の数は午前の29から32に増加。ほぼ直線で長い部分があったり、急旋回や細かなステップが必要な部分があったりと、タフなコースになった。難しいコースとは、急な折れ曲がりがあったり逆にほぼ直線の部分があったりと、ターンのリズムが一定ではないもの。この設定はまさに難関。赤色と青色の旗門は交互にある。その間隔は、長い所に比べて、短い所は3分の1以下しかない。すなわち、次の旗門だけでなく、2~3個先の旗門を見なければ、滑走コースや身体のバランスを決められないのだ。私はコースを何度も観察して、難しいポイントを頭に叩き込んだ。その上で、スタートの順番を待った。午後の滑走順は、午前のタイムの遅い順から。従って、私がラスト。国際大会と同様で観客は盛り上がり、面白いゲーム展開となる。いよいよ、スタート。低い姿勢から飛び出した。いい感じだ。7-9番目が狭く難関で、10番の旗からスピードを上げ、13番目まではほぼ直線である。順番を数えながら滑走できており、落ち着いている様子。難関にうまく入り、姿勢を低くしてクリアーできた。ほっとした。10番目の赤色の旗門を突破し、「直線で加速だ」と思った次の瞬間、「あれ、次の旗門がない!」。すると、急に目の前に青の旗門が迫ってきた。かわすのは難しいか、と感じたとき、私は空中を舞っていた。次のターゲットとなる旗門を確認しないまま、加速してしまったのだ。方向が違っていたが、気がついた時にはすでに遅い。補正できないほど軌道からずれて、片足が旗門のポールにひっかかってしまったのだ。今回の失敗から、いろいろと反省した。まず、難コースは十分に記憶していた。一見冷静と思われたが、難関をクリアした後、次の進路を考えるのを忘れてしまった。すなわち、心の油断と慢心、あせりがあったと言える。しかし、午後の滑走が旗門の不通過によって失格になったとはいえ、実は、内心では充実感を味わっていた。というのは、私が求めるのは結果ではなくプロセス。入賞という結果はなくても、自分が予想していたレベルまで、ほぼ到達できたと思うからである。今回の大会に対する目標は2つあった。小刻みな足の動きで速いスタートダッシュ、身体を柔軟に低い姿勢を保つこと、である。

 平成15年1月、群馬冬期国体で、私の課題が明らかになった。成年男子500m予選でスタートラインについたのは7名。現在は年齢枠がないので、私以外は18~22歳の大学生だ。スタートして200m 1周までは6位、最後は抜かれて7位と最下位。順位はともかく、連続5年の出場で、タイムはベスト記録を出すことができた。46歳でもまだまだ進化しつつあることを証明できたのだ。しかし、後でビデオをみて驚いた。500mでは負けても、スタート後30mぐらいは、いい勝負と思っていたのだ。でも現実は厳しかった。一歩一歩の伸びも全く悪ければ、私の足の回転速度もとても遅い。こんなレベルでは全くダメ。足が小刻みな動きをできるように工夫した。階段はいつも2段飛ばしで昇るが、これは筋力をつけるため今回、高速度で階段を降りる練習を始めた。足の筋肉をリラックスさせた状態で、緻密な動きができるように。芝生の上では、サッカー選手を真似て、あらゆる方向に片足ずつピョンピョンと細かく飛ぶように試みた。水中でも、腰をひねってゆっくりと歩行したり、ふくらはぎや足首を使った細かなステップを訓練した。通常の大人用プールに加えて、子供用の浅いプールで小刻みなダッシュも試みた。以上を続けていると、次第に足の動きが速くなった。もう一つの目標は低い姿勢。身体の柔軟性が必要だ。私は若い頃から体が柔らかく、前屈すれば足底から手指が20cmほどは前に出る。しかし、この程度では不足と感じた。毎日風呂から出たあと、開脚の姿勢で前屈・側屈・回旋などのストレッチを20分以上行った。この際には、扇風機の風を体一杯に浴びて冷やしながら、開脚した脚の間で新聞を読みながら、興味があるテレビ番組をちらちらと見ながら、という一石二鳥~三鳥の方法だ。すると、滑走中の姿勢がさらにが低くなったのだが、太ももが腹部に食い込み、窮屈に感じた。このとき、清水宏保選手が「滑走中に邪魔となる、腹部内臓を上に押し上げる」と話していた意味が理解できた。

 近年、身体の柔軟性が失われつつあるのをご存じだろうか?運動習慣が少なくなり、体が硬くなっているという。その一因は拮抗筋の機能低下。関節を曲げるときに、拮抗筋が完全に弛緩しないので、それが抵抗になり身体が硬くなるのだ。たとえば、ある関節に伸展筋と屈曲筋があり、それぞれ16個の神経と小さな筋肉単位とがあると仮定しよう。常に緻巧性に富む運動をしていると、拮抗する筋肉は互いに微妙な収縮や弛緩を繰り返される。でも、運動をしなくなると、細かいコントロールは不要に。そこで、8本か4本で事足りるだろう、と適応現象が起こってしまう。すると、動きは鈍く稚拙となり、筋肉がうまく弛緩しないので柔軟性も悪くなる、というわけだ。レースが終わった後、近くにある観光地「飛騨の里」に立ち寄った。「文学散歩道」を散策していると、江夏美好の文学碑に引き寄せられた。「飛騨の下々の国である、大化の改新のおり、国制を「大上中下」の四等に定められたが、飛騨は山また山の辺かくゆえ下国のなかでも『下々の国』と呼ばれたという」と。井上靖と田中澄江のお二人の石碑もあった。<井上靖> 人間が作った古い歴史と文化の町を、自然が作った大山脈小山脈が取り巻いている。冬になると、山脈という山脈は雪に覆われ、夏は隅々まで飛騨の貌をもつ優しい人間に鏤められている。<田中澄江>   飛騨の高山に人々は何を求めて行くのか。木で作られた町の姿の良さ それが古びて、なお存在する美しさ。そこには、日本の遠い昔からの伝統的建築様式があるだけでなく、そこに住み着いた人間の心の歴史もまた積み重なっている。日本の歴史を振り返ってみよう。長年、中国や欧米の文明・文化を目標とし、追いつけ追い越せ、と走り続けてきた。しかし、今後は、明確な理想や模範が見つからない。指向する対象がわからないので、何となく不安に感じてしまう。経済は閉息し、落ち着かない社会であるが、次の目標を設定せずに加速するのはダメ。また、速くて簡単なものがいいと、補助器具を用いて能力以上のスピードで楽に滑っていくのもどうかと思う。各自が目指す方向を決め、着実に歩んでいきたい。近頃、街にはコンビニ店やチェーン店が建ち並ぶ。日本のどこの町でも、同じような風景になりつつあるこのような時代だからこそ、飛騨のような鄙びた土地を訪ね、豊かな自然の中で、日本の未来を思い巡らしてはいかがだろうか。

 

 キューバで思索する

 いま私はヘミングウェイと共にいる。彼が生涯愛したキューバ。首都ハバナにあるアンボス・モンドスホテルの5階に、ヘミングウェイのゆかりの品々をおさめた博物館がある。足を踏み入れると、タイプライターやペン、ベッド、釣りの道具、写真など、当時が偲ばれる世界にタイムスリップできそうだ。窓から外を眺めると、レンガ作りの古い建物が立ち並ぶ。向こうの山と調和し、そのまま風景画にぴったり。しかし、街の中心部では道路が掘り返され、古い建物が取り壊されつつある。最近ユネスコからの経済的援助により新しい町へ生まれ変わりつつあるが、少し寂しい気もする。

 さて、私がこのたびキューバを訪れた理由を説明しよう。メンタルヘルスの国際学会がハバナで開催。音楽療法士の友人がシンポジストとして招待されたので、一緒に合流させていただいたというわけ。その先生は平成14年度文化庁在外研究員としてキューバの国立劇場に音楽と舞踏の研修に派遣され、現地に知己も多い。そのため、私は同国の知識階級の人々とも交流でき、同国の生活状況も深く知ることができた。その国立劇場で、ちょうど現代舞踏を鑑賞できた。プログラムには「Danza Contemporanea De Cuba」。英語ならComtemporary Dance of Cubaとなる。すでにヨーロッパで公演し、高く評価されていると聞く。ステージは、一人の歌い手とボンゴを叩く一人の打楽器奏者から始まる。シンプルな発声と基本的な手足の仕草。これが音楽と舞踏の基本で、色で表現するなら白と黒だろう。「Get back to the origin」という表現に近いようだ。その後リズムが展開していく。334という10拍が3つあり、3333という12拍が続き、全部で42拍のリズム。それに合わせて複雑な振り付けのダンスが披露される。この変拍子は、専門家なら認知できるが、一般の人では数えられないかもしれない。不協和音をうまく使いながら、複雑な振り付けを加えていく。心の緊張と弛緩に合わせたリズムと和音で、ダンスを包み込んでいた。踊り手の5人がユニットを組む。ソリストの男性は手が長く表現力が素晴らしい。女性が、タイの踊りのように微妙な手の動きを加えている。クラシックあり、ジャズダンスあり、サルサあり。バレエの芸術性豊かなものや、ファンキーでコミカルなものもある。ラストシーンでは観客が拍手喝采。瞬時に立ち上がり、スタンディングオーベーションで大いに盛り上がったのだ。芸術性とは色気につながるもの。男と女の性の営みをいかに舞台で表現するか。サルサの音楽や世界各地の舞踏もこれに関わる。男と女がこの世にいるからこそ、愛があり、喜びがあり、悲しみがあり、人生があり、芸術が発展し昇華していく。ここに人間の本質があるのかもしれない。

 そもそも、キューバはコロンブスによって発見された。当時、カリブ海の先住民族はスペインによって征服され、過酷な労働と疫病により数年で全滅。その後、アフリカからの奴隷を金鉱で働かせ、サトウキビや煙草の栽培、家畜の世話をさせることに。その際に、複雑な宗教や洗練された文化、音楽が伝わった。ここから優秀な打楽器奏者や歌手たちが生まれ、音楽がミックスされて、現在のラテン音楽のサルサに発展してきているのだ。なお、サルサとは、ソースや源泉、本来という意味である。

 この歴史によって同国の公用語はスペイン語。hは発音せず、jが日本語のヤ行となる。だから、Japanはジャパンではなくヤパンと発音。私の名前のHiroshiはイロシと読まれ、Jiroshiと書けばヒロシとしゃべってくれる。これと逆の例が、南アフリカ共和国のヨハネスブルグである。綴りはJohannesburgであり、日本語ではヨハネスブルグと呼ばれる。しかし現地は英語~フランス語圏で、ヨハネスではなくジョハネスとの発音だった。外来語が日本に入ってきたの言語ルートの違いのためだろう。なお、スペイン語での名前の特徴を紹介しよう。苗字ではなく名前の語尾が、女性ではア行、男性ではオ行になる。たとえば、友達なら女がアミーガ、男がアミーゴとなるわけ。女性の名前の語尾はニーナ、マルガリータなどア行が多い。だから、「・・子」という日本女性の名前は国際的な場で、男性と思われることがあるという。

 現代のキューバは社会主義国家である。以前には貧富の差はなかった。しかし、1993年に経済改革により市民のドル所有を解禁するなど、資本主義経済システムを導入。その後ドルが普及し、人々の生活の格差が広がっている。人々の平均的な月給は200~300ペソ(800~1200円)で、ペソで支払われる。知識階級でもせいぜい500ペソというレベル。国民の日常生活はすべてペソを用い、食費が占める割合のエンゲル係数は90%以上という。一方、同国の観光業は外貨を稼ぐ経済の中心。外国人はすべてドルやユーロで支払う。タクシーを数時間チャーターすれば数十ドル。1ヵ月の給料以上だ。メーターはあるが、実際には正規の料金ではなく交渉次第。英語がわかるドライバーは10人に1人ほど。外貨は国に吸い上げられ、労働者へはペソで支払われる二重構造だ。たとえば、ビュッフェでランチを食べる場合、現地人と一緒ならペソで、外国人ならドルで支払う。同じランチでも一桁違う。そういえば、小説家の村上龍氏がキューバの魅力的な生活と音楽を紹介している。そのためか観光客が増加中だが、通常、国民の暮らしはわからない。その点で、私は貴重な経験ができた。同国には、自宅の一室で外国人を宿泊させて外貨を獲得する制度がある。このKASA(家の意味)に私は宿泊し、他のKASAや一般人の生活を垣間見る貴重な機会を得た。そこで印象的だったのは、平均的な人々の生活だ。同国の配給について、具体的な数字がある。1ヶ月に米は6ポンド、豆(黒色)は12オンス、砂糖(白色)は3ポンド、油(料理用)1ポンド、歯磨き粉は1家族1本(4-8人なら2本、9人以上は3本)。コーヒー豆は15日間で4ポンドで、石鹸や洗剤も不足しがちだ。食物については、たまねぎ1個が1ドル。スパイスは高くガーリックがあるだけ。キューバ産のパイナップルは20ペソ、アブガドは15~20ペソと1日の給料に相当。りんごやマンゴは米ドルで40セント、卵は1カ月に6個だ。肉1ポンドは7~8米ドルで、特別な機会にだけ食べられる。最近、ひき肉が世の中に登場してきた。ただし牛乳の配給は多く、0~7歳には1日に1リッター。7~13歳にはヨーグルトが配給されるが、豆乳のために味は良くない。通常のヨーグルトは1個が1ドルだ。なお、家族に胃潰瘍や糖尿病など病人がいると申告すれば、牛乳は薬でもあるので考慮してもらえる。

 歌と踊りのエンターテインメントとして知られる「トロピカーナ」を訪れた。米国資本のショービジネスによる外人専用のクラブだ。サルサなど快活な音楽とダンスを楽しめる。中心部からタクシーでわずか15分走ると、全く想像できない別世界がそこに広がっていた。入場料は65-85ドルで、食事付きなら10ドルアップ。ツーリストとしては通常の価格だろう。しかし、同国民からみれば、信じられないだろう。直径10mほどの円形ステージの周りに、数百席の観客席がある。夜9時に到着すると、荘厳なクラシックの演奏が始まった。ステージ上には、キーボード1、バイオリン4、チェロ2と、生演奏を楽しめた。夜10時からが本番だ。数多くの踊り子が頭の上に大きな飾りをつけて、リズミカルに踊る。上半身が裸体の場合もあり、フランスのパリ・シャンゼリゼ通りのクラブに似ている。音楽と舞踏を楽しみながら、キューバという国について思索していた。国民および観光客、ドルとペソの二重構造。音楽スポットとして、国立劇場やトロピカーナもあれば、一方で、街角のワンショットバーもある。カクテルを片手に生演奏を愉しむ旅行客もいれば、その建物の傍らで、街路に流れ出てくる調べをジベタリアンで聴く若者の姿も印象的だ。サルサの音楽は明るく快活だ。地理や気象のファクターもあろう。しかし、経済的に余裕がないからこそ、相互に助け合い、音楽が人々の生活に必須であるのかもしれない。「そのうちに、こんな苦しい状況なんて去るさ!」、と強く生きる人々にエールを送りたい。

 

 さだまさしの芸術を考える

 さだまさし原作の映画2つが、先日、相次いで公開された。いずれも、人の心を打つ感動的なものだ。以前から大ファンである私は、彼の感性に、なお一層惚れてしまった。人気歌手のさだ氏は長崎出身。子供の頃には全国でトップクラスのバイオリニストだった。優れた音楽性や温和な人柄でよく知られている。「精霊流し」(日活/東北新社、2003.12.)は、さだ氏の自伝的な小説が映画化されたもの。舞台は長崎。小学生の雅彦は、父(田中邦衛)と母(高島礼子)に愛情豊かに育てられ、バイオリニストを目指していた。ステップアップするため、雅彦は鎌倉に住む母の妹の節子(松阪慶子)に預けられ、陽気な叔母と同年代の義理の息子と一緒に暮らす。雅彦(内田朝陽)は大学生になり、すでにバイオリンから遠ざかっていたが、そのとき様々な事件が降りかかってきた…。長崎の伝統である「精霊流し」「精霊船」の映像や、バイオリンが奏でる名曲「精霊流し」がとても美しい。原爆体験を有する節子が「自分に素直に生きていれば、苦しいことはあっても不幸にはならない」と繰り返す。この台詞が、私たちの心にジーンと深く染みこんできた。   ◇    ◇    ◇    二つ目の映画は「解夏(げげ)」(東宝、2004.1)。東京の小学校教諭である隆之は、特有な眼・粘膜症状のためベーチェット病と診断され、徐々に視力を失うことに。隆之は恋人の陽子を慮り、ひとりで故郷の長崎へ戻った。しかし、事情を知り追いかけてくる陽子。郷里の景色を目の奥に焼き付けようと、2人は坂の町を歩くのだ。次第に視界が曇っていく恐怖や悲しみ、家族や恋人の愛が、穏やかに映像で表現される。なお、解夏について若干解説する。古来、禅宗の僧は、座禅や行脚、托鉢で修行を積んでいた。しかし、インドの夏3カ月間は雨季で、外出には不便な季節。虫の卵や草の芽が生じる生命誕生の期間に歩くと、殺生をしてしまう。そのため、修行僧は庵に集まり、雨安居(うあんご)と呼ばれる共同生活で修行した。庵に食糧が寄進されて、これが寺院の始まりになったという。雨安居の始まりが結夏(けつげ、陰暦4月16日)、終わりが解夏(陰暦7月15日)と呼ばれたのだ。

 映画の中で、老学者が二人に諭す。「次第に視力が低下する時期は、恐怖を感じる苦しい行だ。しかし失明に至った時点で、その恐怖から解放される」と。その日は苦しみから解き放たれ、新しく出発できる日とも解釈できる。涙なしでは観られないこの映画。是非とも、病気で悩む患者さんや医療関係者にも観てほしい。    ◇    ◇    ◇    さだまさし氏は1952年に生まれ、72年に「グレープ」を結成してデビュー。「精霊流し」で第16回日本レコード大賞作詞賞受賞。その後、77年にアルバム『風見鶏』、79年『関白宣言』、82年フジテレビのドラマ「北の国から」のテーマなど、大きな反響を呼んだ。さだ氏は、映画監督として「長江」(東宝、1981)を手掛けた。さだ氏の祖父、父母が青春時代を送った中国を訪ね、長江の流れに沿って街と人々と歴史を追ったもの。しかし、この映画で莫大な借金を抱え込んだ。さだ氏はこれを人生のバネと考えた。その後、ニコニコして、顔晴り(がんばり)ながら、頑張ったのである。その活動の一つが、コンサート。日本では前人未到の3000回を超えてしまった。この回数は半端ではなく、単純計算しても、年間120回のペースで25年間もかかるのだ。さだ氏のコンサートには、私は必ず足を運ぶ。音楽を聴きにいくのではなく、楽しく心暖まるおしゃべりを聞きたいから。巷では、歌の間におしゃべりがあるのではなく、おしゃべりの間に歌がある、とさえ言われているほどである。さだ氏のコンサートは、開始時間が早い。この前は、午後5時30分から始まった。その理由は、話が湯水のように湧き出てきて、いつまでも尽きないから。以前にラジオのパーソナリティをしていたためかもしれない。よくあれほど、話し続けられるものだ。ほとほと、感心してしまう。なお、その内容が凄いのだ。文化・芸術・芸能・歴史など、幅広くてしかも深い。とにかく、言葉の端々にヒューマニティが溢れ、彼の優しい気持ちがほのぼのと伝わってくる。その一例が、「母をたずねて三千里」ではないが、「バイオリンのルーツをたずねて」さだ氏が英国まで行ったことだ。彼のバイオリンは、身体の一部でありとっても可愛い。いつどこで生まれて、どんなルートでさだ氏の元にやってきたのか。そのために、わざわざ英国の片田舎まで出かけ、ようやく100年以上前に誕生した所が明らかになった。さだ氏の愛情が注がれているバイオリンの音色は伸びやかで、楽器自体が嬉んでいるかのように、感じられた。

 なぜ、さだまさし氏は素晴らしいのか?その理由を私なりに分析してみた。第1に、小学生の頃、すでに全国レベルのバイオリニストになるほどの音楽的才能があった。子供のピアニストやバイオリニストは、訓練だけではトップクラスにはなれない。優れた遺伝的因子が両親から授かったのであろう。第2は両親のファクターである。子供がそのレベルまで達するためには、家庭環境が不可欠だ。幼少の頃から家庭で大切に育てられ、生活習慣、価値観、物事の考え方、努力の継続など、基礎がきちんと築かれていたはずである。第3に、小学校卒業と同時に、バイオリンの修業のために単身上京。文学少年でもあり、難しい哲学の書籍なども読みあさることもあった。これに似ているのが、作曲家のショパンである。音楽はもちろん、絵画や演劇など他の芸術でも人並み以上の実力を示したという。また、子供の頃から読書好きで、学生時代には学内新聞を発行したりしていた。歴史に名を残す音楽家は、文学にも精通していると言えないだろうか。第4に、さだ氏が大学生のころ、いろいろな苦境で落ち込むこともあったが、それらを克服したことである。青春時代に降りかかったストレスによって、さだ氏はさらに強くなった。「鉄は熱いうちに打て」と言われるが、逆境によって、大きく成長したものと思われる。以上の4つのファクターが、さだ氏の人生に関わったのではないだろうか。その結果、人の心を揺らし震わすことができる音楽的才能や芸術的感性、鋼のような強靱な精神力、風になびく柳のような柔軟性に富む優しさ、などが生み出されて融合したのではないか、と推論している。 

 さだまさしの音楽は、長年、老若男女に広く支持されている。その一因は、ゆったりと癒しが感じられるからだろう。癒しとは感覚的なものだけでなく、コンピュータでも解析可能。さだ氏の音楽をパワースペクトル分析すると、癒しの程度が数字で表わされる。「1/fゆらぎのリズム」に近いデータとなるのは間違いない。他の理由として、何度でも感動させられる歌詞がある。「関白宣言」や「親父の一番長い日」の歌詞は、誰もが共感できるウイットに溢れたもの。当時、この曲を聴いたりカラオケで歌ったりするたびに、みんなで一緒にクスッと笑ったものだ。今の時代と比べると、ちょっと不思議な現象、と思えないだろうか。さだ氏の音楽に包まれると、時間はゆっくり流れ、心はゆったりとなる。換言すれば、時間にも、空間にも、人間にも、余裕が生まれ、心が安らかで平和になるのだろう。最近、さだ氏は、世界平和を目指して、長崎に「ピースミュージアム」を建て、「貝の火運動」を続けている。これは宮沢賢治の「貝の火」という小説に由来しているものだ。「あなたが平和をイメージする曲は?」というアンケート結果がある。上位10曲中に、さだ氏の歌として「祈り」「広島の空」「しあわせについて」「神の恵み」の4曲が選ばれている。

 他の6曲を下記に示すので参考にされたい。「故郷」(文部省唱歌、岡野貞一)「イマジン」(ジョン・レノン)「さとうきび畑」(森山良子)「戦争を知らない子どもたち」(ジローズ)「花はどこへ行った」(ピート・シーガー)「アメイジング・グレイス」(本来賛美歌、現在放映中のTV番組「白い巨塔」のテーマ曲) 私が薦めるCDとして、コンサート3000回達成記念の「燦然會」や有名な12曲を含む「さだまさしベスト」などがある。いちど、目を閉じて、さだまさしの歌詞を味わいながら、優美なメロディで心を癒してみてはいかがだろうか。

 

 共感覚

 英文雑誌を眺めていると、気になる言葉が目に飛び込んできた。「パーフェクトピッチ(perfect pitch)」と。すぐに、頭にピンときた。私は小さい頃から現在に至るまで、ずっと野球選手。47歳になっても、まだ走り回っている。だから、野球のニュースが大好きだ。日本人が大リーグで活躍する姿をみると、とても嬉しく思う。パーフェクトピッチとまで言うからには、ピッチャーが完全試合を演じたのか、あるいは、素晴らしい投球で試合に勝ったのだろうと思い、記事を読み始めたのだった。ところが、ちょっと内容が違う。スポーツの話ではなさそう。大脳の機能が‥‥、などと書かれている。いったい、何のことだろうか?実は、perfect pitchとは、音楽の分野における「絶対音感」のことだった。確かに、完全はパーフェクトで、音程はピッチ。しかし、perfectという単語は、広い意味で使われているので、つい思い込んでしまったのだ。

 私にはなぜか「絶対音感」がある。特に訓練をしたわけではないが、物心がついた頃から自然に備わっていた。だから、汽笛の音程が瞬時にわかったり、誰かがピアノ鍵盤のどこかを触っても、直ちに言い当てたりしたものだ。絶対音感があると便利なことが多いが、不便なときもある。合唱の練習で、指導者が楽譜と違う音程で歌わせる場合、私は困った。初見の楽譜の音符と、歌っている音がずれているのだ。頭の中で瞬時に補正しながら歌ったことを思い出す。世の中には凄い人がいるものだ。最相葉月さんの著書「絶対音感」から紹介しよう。バイオリニストの五嶋みどりさんは、小さい頃から440Hzの絶対音感で訓練されていた。9歳の時、渡米して442 Hzの音を聴くと、気持ち悪く感じたという。カーネギーホールで用いる442Hzに合わせるのに、とても苦労したと聞く。微妙な振動数の違いがわかる、究極の感覚だ。救急車のサイレンは、ドップラー効果で音の高さが変動する。この音程がわかる能力とは、常識範囲内。しかし、「ガラス食器を床に落として割ったときに、○○の和音が聞こえた」などと言う音楽家がいる。いったいどんな耳と脳を持っているのか、通常の人にはわからない。

 人間には五感がある。六つ目は第六感で、そういえば「シックスセンス」という映画もあった。これらの感覚は重複することが知られ、「共感覚」と呼ばれている。あなたは、次のような経験はないだろうか?

・文字を読んだり言葉を聞くと、心の中にある特 定の色が見える ・音楽を聴くと、その音楽の種類や音程、音色な どによって、特徴あるイメージが見える ・料理を味あうと、以前の記憶が甦ったり、特定の音楽が聴こえてきたりする。この現象は、芸術家などにみられやすい。具体例として、音階や音程の場合を紹介しよう。ピアノの鍵盤にあるのが12個のキー。どこから弾いても困らないように、音階は平均率になっている。1.06の12乗がほぼ2.00となるので、半音毎に約1.06倍ずつ周波数が高くなる等比数列なのだ。だから、12種類の鍵盤で、どこから演奏し始めても、曲は同じだろうと一般人は考える。しかし、実際は全く違う。特定の音階や和音によって曲調が大きく変わってくる。私の場合、キーによって同じ曲でも感じ方が違ってくるので、下記に示してみよう。

 ♭1つ:ヘ長調は、農村や田舎の雰囲気、おそらく、ベートーベンの「田園」に由来か。♭2つ:変ロ長調は、ブラスバンドの金管楽器、アメリカのジャズやブルースが連想される。♭3~4つ:変ホ長調や変イ長調は、私が大好きな音階。優雅でbrilliant、きらびやかな雰囲気が感じられる。おそらく、ショパンやリストが作曲し、センチメンタルで甘美な曲にこの調が多いのが関連しているのではないだろうか。♭3つ:同じ♭の数でも短調となるハ短調では、暗い雰囲気となる。ベートーベンの「運命」やピアノソナタのイメージであろう。♯1つ:ト長調は、爽やかで海や夏の情景や、童謡の「うみ」のイメージが重なっているのか。ポピュラーでは爽やか系で、柑橘系の果物の香りが漂う。コンピュータで使うブルー(青色)やシアン(水色)がぴったり。♯2つ:ニ長調は、草原の風景がイメージされ、緑や黄緑の色彩だ。同じような自然の情景でも、♭1つのヘ長調は、収穫の時期の黄色や茶色、夕日に輝く金色を主とした雰囲気となる。以上の感覚は、私だけかと思っていたが、西洋音楽の経験者では、類似したパターンがみられるという。ベートーベンやショパンなどの音楽に触れていくうちに、音・光・色の共通感覚を音符に転換した大作曲家の感性が、後世に受け継がれてきたのではないだろうか。

 ところで、「共感覚」は、文学や言語学の領域にも関わりがあるらしい。天才詩人として広く知られているのが、フランスのランボー(Rimbaud)。粗暴な性格で、当時、常識を超えた言動がみられた。ヴェルレーヌとの同性愛のスキャンダルによって、文壇を失望させることも。しかし、現実への反逆という独自の詩風を確立したのだ。これらのストレスと関係があるかもしれないが、右足に骨肉腫を発症し、右足を切断せざるをえなかった。彼の代表作とされるのが、傑作として名高い「母音」(1871年)である。アエイオウの発音を聞くと、色彩が目の前に浮かんでくるそうだ。Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青であり、「母音よ, 君たちの隠れた誕生を語ろう」と呼びかけた。さらに、具体的なイメージとしては、Eは靄とテントの純白さ…、Iは緋色, 陶酔の美しい唇の笑い…、Uは周期, 海, 平和, 学究の広い額…、など。黒と白のグレーの世界の2色に加えて、赤・緑・青という光の三原色を配している。偶然か必然かは、今となっては判断できないが、何か彼の意図があるのかもしれない。

 また、ランボーの研究者であるフォリソンの説によると、彼の共感覚は、アルファベットの文字の形が、女性のヌード写真や色覚に関係しているというのだ。A:黒;逆転させた女性器 E:白;筆記体を横にして乳房 I:赤;同様に横に回して口 U:緑;逆転させて髪の毛 O:青;開いた口。 なお、ランボーの有名な詩「永遠」を示す。 [L'eternite'](永遠)  Elle est retrouve'e. (また,見つかった)  Quoi? - L'Eternite'. (何がって?永遠さ)   C'est la mer alle'e (行ってしまった海さ)   Avec le soleil. (太陽といっしょに) このような感覚が、どうして湧き上がってくるのだろうか?必要とされる条件を考えたので、列挙してみよう。 ・母国語がフランス語である。 ・言語や音に興味を持ち、洞察が深い。 ・絵画的な感性があり、色彩感覚に鋭い。 ・同性および異性を含め、ユニークな感性。このような言語学や音楽、芸術、文学などが融合することで、共感覚が生まれ、言葉というツールを用いて、表現したのであろう。

 ランポーの共感覚は、フランスの言語やリズム、イメージによるもの。一方、日本にも同じようなものがあるか調べてみた。すると、類似したパーたんの楽曲が見つかったのだ。母音と音楽との関わりについて、『母音頌~津山慕音歌』という曲がある。作詞は入沢康夫、作曲は諸井誠で、母音の音声から作曲した。その中で、第1楽章の「序唱」をみてみよう。 

 アは 光  鮮やかな光  エは 時間 永遠の微笑み  イは 人  今の人古の人  オは 夢  夢のオアシス  ウは 故郷 ・・・  

太古の昔から、日本人は豊かな自然と共に生きてきた。人の和を大切にしながら、発展してきたのである。独自の生活習慣や人生が統合された状況から、このような共感覚が生まれてきたのかもしれない。英語やフランス語を聞き、諸外国の音楽や文化、慣習に触れることによって、各「共感覚」を理解し、感じられるようになると思う。

 

 陸上へのチャレンジ

 「マッハ末續」と言われる末續慎吾選手。世界選手権の銅メダリストとして有名だ。実は、末續慎吾選手に憧れる無名のアスリートがいる。「速く走れる本」や「なんば走り」など話題の書籍を読破し、研究・実践している陸上選手について、少し語ってみよう。「位置について」。スタートラインの白線、ぎりぎりに手をつく。一列に並ぶ選手の動きが止まる。「用意」・・2.1秒で「パーン」と号砲。低い姿勢で飛び出す。自分のお臍を見ながら、顎を挙げない。足を運ぶリズムは良さそうだ。このままで我慢し、前傾姿勢を保つ。次第に視野が広がってきた。目標とする選手が、近くのコースを力走中。おお、近い、離れていないぞ、わずか3m。力まずに、そのままゴール!実は、アスリートとは筆者のこと。2004年6月、徳島県マスターズ陸上大会が行われ、私は60mと100mを走った。私は47歳なので、45-49歳のグループ(M45のクラス)で、出場させていただいたというわけ。今回のタイムは、60mで8.22秒。私が2年前に出した60mのタイムが、徳島県記録(M45)として継続中。今回、自己記録を0.26秒縮められて、よかった。工夫した練習が実を結んだと思う。ピアノの練習と同様に、ゆっくりのリズムから始め次第に速くしたり、力を入れる走法と脱力する走法を交互に繰りかえしたり、試みたのだ。本番では、緊張感を楽しむワクワクする気分で臨み、精神面にも問題はなかった。結局、ほぼ計算通りのタイムを出せたと思う。その理由について説明しよう。数日前に測定した50mが6.89秒6.93秒と約6.9秒だった。10mが1.3秒かかると計算し、6.9秒に1.3秒を足すと8.2秒となる。ぴったりだ。中学3年~高校1年の時に50mが6.9秒だったので、自分の能力を考えれば、この程度だろうか。100mはとても長く、後半は足が空回りして13.41秒だった。これを分析すると、60から100mの40mが、1.3秒x 4=5.2秒。8.2 + 5.2 = 13.4秒となり、ぴったりとなる。

 徳島県で一番速い30歳台の選手は、100mが12.5秒。60m地点で私より0.4秒速く、私と3.2mの差だった。60m以降に彼は加速するが、私はどんどん失速していく。私は今回、60mを目標として練習してきた。30mなら何回でもダッシュできる。しかし、60m以上の距離の全力疾走は、何度もできない。筋肉に負担がかかってしまう。100mは本番で一回だけ走ったが、長い距離に足の筋肉はびっくり。高校1年のときの12.9秒を目指したい。しかし、16歳と47歳ではあまりに筋肉が違うので、どんな対策を練るかが今後の課題だ。さて、陸上競技と医学の関係について、考えてみよう。1マイル競走では4分が人間の生理的限界だとされていた。医科学などなかった頃のこと。1954年、英国のバニスターは人間の生理機能を研究し、インターバル・トレーニングで、最初に4分の壁を切ったのだ。彼は現在、神経科の医師として活躍している。

 ここで、100mを速く走る因子を説明する。走る運動を力学的に考えると、物体を動かす必要なエネルギーは、下記の方程式で表わされる。K =1/2MV2 ・・・(1) 運動エネルギー(K)は、その物体の大きさ(M)と速度(V)で決まる。また、生理学的なエネルギー代謝の側面から考える。筋収縮で放出されるエネルギーが、走者が発揮するパワーに等しいと判断する。K=∫power・・・(2) (1) と(2)から、生理的パワーが大きくなれば、走者の速度(V)も増大するのがわかる。一方、風の有無で記録が全く異なるように、空気抵抗は重要だ。数式を示す。

 空気抵抗=1/2CpAV2・・・(3) Cは空気抵抗係数、pは空気密度、Aは走者の体表面積だ。以上から、短距離走で成功するには、1)瞬時に大きなエネルギーを放出できる筋肉、2)体表面積があまり大きくない、3)筋肉以外の身体は大きくない方が良い、となる。なお、最速アスリートのグリーン選手の身長は175cm、体重は75kg、末續選手も178cmで78kgと、同じぐらいの体格である。100m走のトップスピードは40mから60mで、どんな一流選手でも、後半のスピードは落ちる。それはなぜだろうか。筋収縮のエネルギー源はATPで、運動のタイプは3つある。1) 即座:最大パワーを発揮(無酸素で非乳酸性)2) 短時間:高パワーを持続(無酸素で乳酸性)3) 長時間:弱パワーを長く持続(有酸素運動)

 最大パワーのダッシュは一気にATPを利用する1)で、五輪選手でも4~5秒で1)から2)に移行する。短距離では、3)のエアロビクスは使わない。100m走の後半でスピードが落ちるのは、2)の乳酸蓄積とも関係がある。効率よく動くために、筋群の協調性や運動制御の神経コントロールが重要だ。不要な力で、屈筋群と伸筋群が同時収縮するのではどうにもならない。関連疾病に小児麻痺(cerebral palsy, CP)がある。CPで特徴ある腕の動きは、屈筋と伸筋の両方が収縮してしまうことによる。拮抗筋が弛緩したスムーズな動きについて、アジア人で100mを10.0秒で走った伊東浩司選手を指導した小山裕史氏の「動きづくり」の理論が参考となる。いくつかポイントを示そう。1) 速く走るには重心移動を意識する。2) 着地した足の上方に、骨盤を前傾させて乗せ、 重心を前へ押し出すように走る。3) 大殿筋とハムストリングスを強化させる。両者は骨盤を前傾させ前へ押し出すからだ。4)肩甲骨周辺 を強化する。肩をテープで固定する と、腰が前に出ず、ストライドが伸びず、ピッチも上がらない。4本足の動物が肩甲骨と骨盤 を連動させて速く走れるのは、無意識の脊髄レ ベルの反射を利用している。5) 柔軟でバネのある筋肉をつくる。理想の筋肉は 柔軟性に富む。

 従来の終動負荷では、ずっと同じ負荷のため反射が起き難く、乳酸が溜まりやすく硬い筋肉になる。一方、初動負荷トレーニングでは、負荷は最初に強く後は弱く、「反射」 がスムーズに起こり、関節の動きが加速し、速度が増大する。筋肉に疲労感がなく、柔らかい筋肉となる。現在、スポーツ界で注目を浴びているのが「なんば走り」である。なんば歩行とは、右手と右足、左手と左足を同時に振る歩き方のこと。日本人は、江戸時代末期まで、この歩き方や走り方だったという説がある。江戸時代の飛脚や町人の走歩行の姿は、なんばになっているようだ。明治となり西欧化のため、学校体育や軍隊の場で、左右の手足を対角線上に振る歩き方に変えさせたという。右足が前に出ると、右手も前に出るという動作は、阿波踊りなど多くの盆踊り、田植え、剣道、相撲のてっぽう、忍者の走法、などに認められる。バスケットボールでドリブル、ラグビーのタックルなどにも応用できるのだ。なんば歩きや走りが陸上の短距離走法にプラスとなり、腸腰筋を用いる走法や、高野、伊東、末續らの活躍につながってきた。 私も実際に体験してみると、肩と腰がねじれず、うまく脱力でき、パフォーマンスの向上に役立つ気がする。

先日、医学部の準硬式野球部で共に汗を流した後輩と偶然会って驚いた。中村巧先生もマスター陸上に出場しているという。彼はかつて100mを11秒台で駆け抜ける野球選手で、プロ野球からも注目されたほどだった。現在は兵庫県で整形外科を開業し、栄養士を雇い食事と運動の指導を精力的に行っている。早速、意気投合し、医学研究のプロジェクトまで一緒に始めることとなった。同僚でライバルでもある同志を得て、明日(アス)に向かって、歌(リート)でも口ずさみながら、楽しくチャレンジを続けていきたい。

資料1) 矢野龍彦/金田伸夫/織田淳太郎 著「ナンバ走り」光文社新書、2003.(古武術、ひねらず、うねらず、ふんばらない動き。末續選手となんば走り、各種スポーツへの適応、などが解説)

 

 オルゴールから進化

 ●発明王エジソンの声だ!私の目の前にある蓄音機では、黒色の円筒形のカラムがクルクルと回っている。ここに音声が録音されているのだ。その成分は蝋(ろう、パラフィン)とのこと。そういえば、蝋に電気データを保存する方法が、以前にテレビで放映されていた。蓄音機には、小さな音を聞くために、医師が用いる聴診器をつないだり、音を増幅するために黄金色のラッパをとりつけたり、という工夫がなされている。実は、私がいる所は、将棋の駒で知られる山形県天童市。ここに「ARSBELオルゴール博物館」がある1)。ARSBELとは“優美なる芸術”のこと。テーマとなる二人の天使が、妙なるオルゴールの音色と共にこの地へ舞い降り、彼らはギリシャ神話で美しい琴を奏でるオルフェウスの琴を守り、祝福したという。私は観光ガイドを調べ、単なるオルゴールのコレクションだろうと思いながら、訪れてみた。しかし、実際は全く違っていたのだ。まず驚いたのは、麗しい女性スタッフが、オルゴールについて解説してくれる。そのプレゼンテーションが素晴らしい。音楽や文化、歴史のエッセンスをコンパクトに教えてくれるからだ。

 さらに、実際に気持ちよいオルゴールの音色で私たちの身体を優しく包み込み、癒んでくれるからだ。●今回、私は基本的なことに気づかされた。オルゴールとは、宝石箱などに備わっていて可愛らしい音楽を奏でる装飾品(ornament,adornment)の一つと思っていたのだ。しかし、オルゴールとは「音楽をもう一度聴きたい」という人々の願いが具現化されたルーツだったのである。すなわち、音の記録と再生の歴史について、そのオリジンの存在とも言える。そもそも、音楽とは、発せられたら直ちに消えてしまう「瞬間の芸術」であった。すべての音も、また、人の声や歌も同様である。この常識であったことが、人間の夢と工夫とパワーにより、大きく換点することになったのだ。スイスで1830年代に、時計の技術を用いて誕生したのがシリンダーオルガンであった。当時は、金属の円筒に、ピンと呼ばれる針を一つ一つ職人が打ち込んだ。ピンにひっかかって音を出すのは、櫛の形に似た櫛歯(くしば)。この先は針の先ぐらいの、とても細い構造になっている。だから、わずかにずらしながら、1つの円筒に8曲のピンを打ち込むことができたのだ。この黄金色に輝くシリンダーと数万ものピンを目の当たりにすると、その微細な高い技術に声を失うほどである。シリンダーの製作はすべて手作業で行われ、非常に高価なものだった。1880年代になると、円筒の代わりに大きい円形の盤がドイツで発明される。このディスク・オルゴールは画期的な代物だった。というのは、1台の機械があればディスクの交換で数多くの曲を聴くことができ、量産ができるようになったからだ。この技術が米国にも広がり、家庭では卓上型が、パブやレストランでは、営業用に家具のような大型のミュージックボックス(musicbox)が普及する。コインを1枚入れて曲目を選択すると、ディスクが動いて回転し音楽が流れてくるのだ。これは、私が子供のころによく見かけた「ジュークボックス」の原型で、全く同じもの。しかし、これも歴史とともに変遷を遂げていく。蓄音機の時代の到来だ。オルゴールが衰退し、高級な装飾品の中に組み込まれるようになった。あるいは、オルゴール+蓄音機、オルゴール+ピアノ=自動演奏ピアノ2)などの合体型が、生き残りをかけて登場してくる。その後はレコードの時代となり、SPからLPへと発展したのはご存じであろう。LPレコードは魅力があり、収集家も少なくなかった。しかし、雑音がないCDが登場すると、あっという間にCDに取って代わられた。確かに技術の進歩は喜ばしいが、変化が速すぎて、ゆっくりと音楽に浸りながら考える暇もないような気がする。●アンティークな数々のオルゴールの中で、私が興味を覚えたのは、パイオニアの創業者・松本望氏が所有したもの。以前にベルギーで買い求め、20年後に日本に運んできたという。ディスクには、「ヴェルディの乾杯の歌」と記載がある。パイオニアといえば、ステレオなどの音楽機器メーカーで、子供の頃から慣れ親しんでいる。私が御世話になっている日本音楽療法学会(その前身の日本バイオミュージック学会)は、日野原重明先生が代表を務められていることもあり、長年パイオニアから多大な援助を受てきており、文化的サポートに感謝したい。また、1993年にデンマークのSteno病院(糖尿病の専門病院、Novo Nordisk社関連)で1週間研修を受けた際、皆でダウンタウンに出かけ、パイオニア製のレーザーカラオケ(英語の曲が2000曲内臓)で、ビートルズを一緒に楽しく歌ったことを懐かしく思い出した。●さて、ここで、私が山形を訪れるようになった経緯を説明しよう。平成16年10月、第18回東北地方糖尿病教育担当者セミナーが、天童市に隣接する山形市で開催されたからであった。

 今回のテーマは、1) 糖尿病の療養指導の理論と実践、2) いかにメッセージを伝えるか、3) 参加型ディスカッションと面白くてためになる講演、などである。その中で、私が特別講演を担当させて頂いたというわけ。テーマは、山形大学の富永真琴教授からのご依頼による「イラストと川柳で学ぶ糖尿病」。私の著書と同じで3)、タイトルからも推測されるように、通常の教科書的な講演ではない。食事・運動や音楽療法のエピソードを紹介したり、ピアノを演奏したり、聴衆と一緒に歌ったりするものだ。従来、私は講演の機会を多数頂いており、最近はプレゼンテーションが楽に感じる。というのは、パワーポイントを駆使すれば、TV映像やスケート映像などを簡単に含められ、聴衆にインパクトが強いメッセージを送ることができるからだ。つまり、私から外方へ(ex)発散する(press)ことで、伝えたい内容を表現(expression)し、そのプレゼンテーションと内容が良よければ、聴衆の心の中に(in)に烙印をおす(press)ように、印象的な(impression)仕事ができることになる。常に、工夫しながら楽しみながら継続してきた4)。一番嬉しく感じるのは、参加者のキラキラ輝く眼差しや笑顔。これが、私への最高のプレゼントになり、「さらに飛躍するぞ」と、やる気や元気が湧き出てくる。●このたび、山形では、齋藤茂吉記念館(精神科医、二人の子息が齋藤茂太と北杜夫)、佐藤小夜子記念館(歌手)、浜田広介記念館(童話作家)、将棋記念館などを訪問できた。いずれも、お洒落でわかりやすいプレゼンテーションを堪能し、大きな収穫を得た。音楽を含む芸術や文化は、今後どのように発展していくのであろうか?真善美を追求しながら、各人が自分の世界を模索し、極め、情報を発信していく。その場合、発信する内容と方法について、それぞれに考える必要があると思う。内容は、普遍的なものでは価値がなく、個性的な存在を目指し、研鑽し磨きをかけていく。方法は、自分だけ満足したらよいのではなく、受け手である一般の人々に、どう訴えるのか。五感を刺激し、見て聴いて触って、意図が伝わり納得してもらわねばならない。プレゼンテーションの手段がポイントとなるだろう。現代はITの時代。パソコンあり、数千曲の音楽が内臓されたiPodあり。近い将来、CDやDVDから、リムーバブルハードや他の素材へと、もっと形は小さく容量は大きくなっていくだろう。どのように方法や手段が便利になり洗練されても、本来の内容が重要であるのは当然である。現代の問題は、ハイテクが進むのと反比例して、人間味が失われていくことである。こんな時期だからこそ、真善美を追求していく芸術を、もっと大切に考えるべきではないだろうか。今後、医学や科学、芸術の分野で、内容の発展とプレゼンテーションの進化が、  どのような方向に進んでいくのかを、いちどゆっくりと考えてみたいものである。

資料1) http://www.arsbel-tendo.com 2) 名称はフルート&バイオリンソロピアノ。譜面は穴があいたロール紙、紙面が送られるとともに、穴の部分からふいごにより風を送りこまれ、パイプオルガンのように音が出る楽器 3) 板東浩. イラストと川柳で学ぶ糖尿病. 総合医学社. 2003.

 

 長き道を進む

 コシノものがたり」千秋楽の舞台を、2005年1月に観劇できた。最近、話題の「コシノ家」の物語。原作は、母アヤコさんが出版した「やんちゃくれ」だ。世界的なファッションデザイナー3姉妹が輩出された経緯がよくわかる。主役を務めるのは、コシノジュンコ役の萬田久子さん。元ミス・ミスユニバースでいろいろな番組を担当し、新春からはNHK大河ドラマ「義経」に出演するなど大活躍中だ。エッセイ「萬田流」で知られる久子さんの雰囲気を私は大好き。話すイントネーション、エレガントな身のこなしなど、何とも言えず心地よい。母役のコシノアヤコは赤木春恵さん。言わずと知れた「渡る世間は鬼ばかり」の重鎮だ。さらにヒロコに池畑慎之介さん、ミチコに牧瀬里穂さんという豪華な顔ぶれだった。

 時は戦後、大阪の岸和田。小篠綾子さんはミシンに魅せられ、わずか21歳でコシノ洋装店の看板を上げた。当時は和装が普通で、洋装がそれほど知られていない時代。パイオニアとして、新しい装いを啓発していくという役割も担っていたのである。ただ、女性ゆえに、客の信用を得るため働きずくめで、子育てもままならない毎日だ。長女のヒロコと次女のジュンコは、子供の頃から服装に興味を持ち、母とファッションの話題で盛り上がることも。一方、三女のミチコは多忙過ぎる母に面倒をみてもらえない。その代わり、テニスに熱中して研鑽を積み、日本一まで駆け上がった。家族をあげての祝勝会が開催されたが、母のアヤコはもともとテニスに興味がなく、三女を心から賞賛する様子ではない。そんなとき、ミチコが驚くべき宣言をする。姉二人と同じ仕事をしたいので、ロンドンに勉強に行きたいと。家族はやめるように説得するが決意はかたい。案の定、生活に行き詰まり、姉が駆けつける。そのとき、ミチコが涙ながらに告白するのだ。「私が一人でロンドンに行ったのは、お母ちゃんに認めてほしかったから」と。ミチコは多忙な母親から、手を引いて歩いてくれたことがなく、「赤とんぼ」を一度も歌ってくれたこともなく、淋しい想いをしたという。音楽の想い出がある姉二人は、岸和田の海辺で夕焼けを見ると、子供のころの歌を思い出したり、郷愁にひたることができたりするというのに。なお、第3幕で心にじーんと伝わってきたのは、由紀さおりさんが歌う「私の生きる道」だ。

   ♪カタカタコットン いついつまでもあなたを信じて歩く カタカタコットン この道より他に私が生きる道はない‥‥♪

 従来日本では、童謡や唱歌が特別に意識することなく伝えられてきた。近年その欠如が指摘され様々な事件が起こる状況をみると、これらの音楽は子供の穏やかな心の発達に必要と思われる。母親の愛情や情景とともに記憶された音楽や、歌の旋律と歌詞が心に優しく語りかける。すると、意識するしないにかかわらず、進むべき方向性がおのずと定まってくるのかもしれない。一方、欧米はどうだろうか? 私は米国の家庭医療学レジデンシーで臨床研修した際、毎日曜日友人が行くいろいろな教会を訪れてみた。クリスマス・イブには、一晩に5か所の教会をはしごしたこともある。そのとき、教会で歌う賛美歌(聖歌)が生活に溶け込んでいるのを感じた。小さい頃から親と教会に通い、毎週牧師について聖書を音読する。つまり「声に出して読む英語」を実践し、賛美歌を歌う。両者を続けると、物の考え方の道すじや芸術を解する心が自然と育てられていくのではないだろうか。その聖歌を、多くの人々と一緒に歌う機会があった。2004年12月、私は滋賀県安土町の文化ホール「文芸セミナリヨ」で、クリスマスコンサートを担当した1)。クリスマスの起源や絵画をパワーポイントで解説しながら、ピアノを演奏。東方の3人の博士は、占星術や導きによって、キリスト生誕のベツレヘムにたどり着く。当時、ベツレヘムの星の輝きや惑星の会合説(土星と木星、金星の会合)など諸説があるが、博士たちはイエスに会い、黄金(王としての敬意)、乳香(神としての敬意)、没薬(人として死す者)という3つの贈り物をしたと伝えられている。これらの情景をイメージした曲集が、音楽家フランス・リストによる「クリスマスツリー」だ。

 この中に「アデステ・フィデレス(東方の3博士の行進)」がある。Adeste Fidelesとは「おお来たれ信仰篤き者」という意味で、4分音符の反復が歩行を表わしているかのようだ。本曲は、私のピアノとホール専属オルガニスト・城 奈緒美先生のパイプオルガンとで共演した。ピアノはオーストリアのベーゼンドルファーという名器。通常ピアノで一番低い音はラで、振動数は27.5Hzである。本器はさらに低音の鍵盤4つが追加され、最低音ファの振動数は21.8Hz。人が聞こえる音は20~20000Hzなので、認識できる最も低い音なのだ。私たちは、叩いた鍵盤の音だけを聴いているのではなく、他の鍵盤の弦の共鳴もあわせトータルな音の幅を聴く。つまり、一番最低音の鍵盤を弾かなくても、共鳴でその弦が震えて音色が変わるのだ。今までに経験がない深みのある素晴らしい音質。振動数が低いため足から骨を伝わり、お腹も揺れ動く気がした。同会場のパイプオルガンは、高さ8m、幅6.2mと大規模なもの。その低音の波動で、まるで会場全体が共鳴するかのようだ。ピアノとパイプオルガンで共演しながら、旋律と伴奏のパートは相互に代わりながら楽しく競演できた。なお、本曲の旋律は有名な「神のみこは」である。みんなで共に歌うことで時と空間を共有し、素晴らしい体験となった。

   ♪かみのみこは こよいしも ベツレヘムに 生まれたもう‥‥♪

 実は、私は聖歌を歌いながら、日本に西洋文化が渡来した時代に思いを馳せていた。というのは、安土は織田信長の安土城で知られる町だから。コロンブスの「アメリカ大陸発見から五百年目」を記念し、1992年スペインのセビリアで万国博覧会が開催された。日本から出品されたのは、安土城の天守閣。原寸大で5、6階部分の巨大で絢爛豪華な木造建築が、欧米の人々やマスコミを驚嘆させたのだ。石造建築が多い欧米人にとって、日本の「木の文化」が「王冠の中の宝石」と映ったからという。日本館への入場者数がトップで、絶えず日本文化が発信され、高い評価を受けた。万博終了後、天守閣が安土町に帰り、「信長の館」に古の天守閣が蘇ったというわけだ。その安土城跡向かい側に様々な文化施設の集合体「文芸の郷」が位置する。

 セミナリオという語は、ポルトガル語で学校という意味。その由来を簡潔に説明しよう。1579年(天正7)、イエズス会の東インド巡察師が来日し、日本人宣教師による布教が最適と考え、宣教師の養成学校の建設を計画。コレジオはキリシタンの大学に相当する最高教育機関、セミナリオは前段階の神学校だ。1580年島原半島に最初のセミナリオが、続いて安土城の麓に建築された。朝5時半に起床し、神学やラテン語、音楽など厳しい学習内容だったとされる。天正遣欧使節の4人は、前者の第1回入学生の中から選ばれたのであった。信長時代のセミナリオは教育だけでなく西洋文化を伝える役割があった。情操教育の一環として音楽もあり、日本最初のオルガン演奏に信長も耳を傾けたと伝えられている。

 なお、安土城から大手門まで続く長い石垣には、織田信忠、羽柴秀吉、前田利家、柴田勝家などの大名たちの屋敷が城を囲んでいたという。このたび、コシノものがたりとクリスマスコンサートを通じて、音楽が人に及ぼす影響を考えた。歌や歌詞には、人間の形成や、世の中の啓発に寄与するパワーを持っているような気がする。安土城で新しい文化に触れた武家は、当時どう感じただろうか? 現代の日本をみると、どう思うだろうか? 私達にはそれぞれの道がある。固有のリズムをベースに、いろいろなメロディーに相当する各自の仕事を、周囲とハーモニーが保たれた状態で、毎日進めていきたいものである。

資料1) 日本音楽療法学会評議員の呉竹英一氏が毎月一度の音楽療法コンサートを長年開催してきている。脳波測定などの研究も継続中。2003年11月の100回記念コンサートで共演し、一緒にCD付き楽譜集「音の宝石箱~宮沢賢治『星めぐりの歌』」星めぐりの歌~宮沢賢治の世界」(ドレミ出版, 2002)の出版なども行っている。

 

 ダンスはいかが?

 映画「Shall we Dance?」を、2005年4月に見た。リチャード・ギアが主演した話題作で、米国で制作されたものだ。エレガントで素晴らしい作品で、心がぽかぽかと暖まった。2004年10月に公開後大ヒットを重ね、世界56カ国の公開も決定しているという。以前に、同名の本邦作品があったのを覚えておられるだろう。日本アカデミー賞で13部門を独占した「Shall we ダンス?」(1996)。周防正行(Masayuki Suo)監督が、コメディやドラマ性をうまく織りまぜ、人生賛歌に仕立てあげた。私が魅力を感じたのは、役所広司さんや竹中直人さん、渡辺えり子の演技で、共感したり笑い転げたり。数々の外国映画賞も受賞し、海外でも高く評価。偶然、国際線の飛行機に搭乗したとき、本映画を英語音声で楽しんだことがあったっけ。オリジナル版を思い出しながら、今回のハリウッド版について、両者を比較分析してみた。主役は、実直なサラリーマン vs キャリア組の弁護士。ダンス教師は、清楚な雰囲気の草刈民代 vs セクシーで魅力的なジェニファー・ロペス。原作は十分に尊重されながら、米国の実情にあわせ、一部の場面設定が若干変更されていたようだった。日本人にとって、社交ダンスとは、通常の生活と全く別の世界の存在である。だから、オリジナル版で、役所さんの平凡な毎日と、タキシードを纏って踊る姿とでは、そのコントラストにハッとする。また、ダンスは恋愛と関連して考えられがちで、気恥ずかしいと捉えられたりする。一方、米国では、高校卒業時にプロムがあるなど、ダンスは生活の一部に溶け込んでいる。子供のころからキスやハグは慣れていて、ダンスに対する偏見は少ない。特に勝ち組の人々は、ショービジネスの世界しばしば出入りしており、その華やかな雰囲気が、文化や感性にぴったりあうような気がしないだろうか。実は、私もダンスを学んだ経験がある。入門はマンボで、ルンバに進み、ワルツの動き知って身体を動かしたその瞬間、まさに「目から鱗」だった。それまで、音楽に合わせてステップは踏めても、身体で感じるリズムが、何となくすっきりしなかったのである。しかし、ワルツの1拍目で重心を下げ、2~3拍目に重心を戻す動作がわかり、ずっと追い求めていた腰のスムーズな動きを、悟ったというワケ。この点は、今回の映画の中でも示されていた。大会に向け練習を続けるシーンで、大切なポイントは重心の移動、つまり腰の「スウェイ(sway)」にあるという。この切り口で、スケートやスポーツ、ピアノ演奏について論を進めてみたい。

 私は「スケート中級者への上達アドバイスNo.1」という実践書1)を、2004年末に出版した。スピードスケートで速く滑るコツは、「太ももを鍛えること」と思っているかもしれない。でも、これは違う。筋肉を鍛えることではなく、逆にあまり筋肉を使わず最小の力で滑るのが大切だ。すなわち、「腰を左右にスウェイして、重心を振り子みたいに左右に揺らす」のが、スケートの高等技術の心髄なのである。言い換えると、身体の重心をどれほど自由自在にコントロールできるかが、ポイントなのだ。コントロールとはcontr (against) + roll (move)から由来している。転がって動くものに対抗して動かなくする、自由奔放に動いている人を管理して動けなくする、という意味である。

 なお、「スウェイ」は他のスポーツにもみられる。ゴルフでは、頭や腰がスウェイする(sway a head, sway a hip)のはダメ。野球のバッティングでも、頭がスウェイすると目の位置が動くので、下手な証拠となる。ただし、大リーグのイチロー選手だけは、スウェイしていても別格だ。医学分野においても、swayという専門用語が用いられている。たとえば、整形外科の領域では、swayback(脊柱湾曲症)とかswaying gait(動揺歩行)などが挙げられる。次に、ピアノを演奏するときにも、腰はまさに身体の要(かなめ)となる。私は5歳からピアノを、11歳からエレクトーンを習ってきた。その後、36歳で24年振りにピアノコンクールに出場した際には、CDを聴いて考え、身体の動きを感じながら研究を重ねたものだ。その結果、ピアノ演奏の軸は「腰」にあることを少し悟った。腰が安定していなければ、頸や肩に余計な力が入ってしまう。すると、前腕~手首~手指をすまく脱力できず、鍵盤からいい音色が生み出されない。つまり、「丹田」を意識して、どっしりと構えることが必要だ。

 もし、演奏中に低音から高音まで広く両手をスライドする際には、どうすればいいだろうか。上半身が移動してから腰が追随するのではない。まず腰がスウェイし、カカトも若干動き、そして上半身の軸がスライドしてから、肘と手首を力まずに移動させると、力まずに手指が自然に動くのである。さらに、腰の動きはジャズピアノの演奏にも役立つことがわかった。クラシックとジャズの違いについて御存じだろうか?実際の演奏では千差万別だが、おおよその差異を説明しよう。クラシックで4拍子の曲の場合、各拍の強さは強・弱・中強・弱と、第1と3拍がやや強い。逆に、ジャズでは裏拍にアクセントがあり、各拍の強さは弱・中強・弱・強と表される。私は以前、徳島ジャズストリートに出場するためにCDを聴き、あるジャズピアニストの映像を見ていた。すると、彼は指で鍵盤を叩きながら、腰と足とを上手に動かしているのだ。両足はスキーでボーゲンの角度のように、つま先を内側に、カカトを左右に開いている。2拍目には、腰がまず左側に移動してから、左足のカカトで床をタップするのだ。同様に4拍目には右に重心がスウェイして、右のカカトでタップ。この方法は、裏拍を身体で感じる練習法として使えるな、と思った次第である。また、筆者は生活習慣病や音楽療法の講演の機会が多い。そんな場合、リズムの感じ方を、一緒に踊りながら説明している。日本の伝統的な演歌などでは、拍子をとるときに、1と3拍目に両手をうつ。その際に、膝を軽くまげて、少々おじぎをするとよい。

 一方、R & B など欧米系の音楽では、ビートの取り方が違う。2拍目には、左腰を左足の上に移動させて、左腰近くで両手を打つ。そして4拍目には、右腰近くで両手を打つのだ。この腰をスウェイする動作がスムーズにできれば、身体全体でそのリズム感を楽しむことができる。つまり、リズムの感じ方や取り方の傾向について考えてみると、日本人は上下方向、西洋人は左右方向の動きとなる。これが「スウェイ」なのだ。いちど試してみて、どうか、あなたの身体でこの差異を感じてみてほしいと思う。ところで、フランスにはかつて、踊る国王がいたのをご存じだろうか。その人は「太陽王ルイ14世(1638-1715)」。幼いころからレッスンを受け、舞踏会でもあらゆる複雑なステップを率先して披露したという。同国最高の踊り手で、音楽家リュリを重用し、王立舞踏アカデミーまで創設したのだった。その時代に登場し人気を得たのが、音楽に合わせて踊れる「メヌエット」。Menuetのmenuとは細かい、小さな、という意味である。軽やかで優雅な雰囲気で、ステップを細かく踏みながら踊ったのだ。舞踏や舞踊には、芸術化あるいは大衆化への進化の歴史がみられる。つまり、美しく踊るか、それとも楽しく踊るか、という2つの方向性である。ダンスとは「足を踏みならし、身体を屈伸させること」であり、これ自体が人間の「性」を刺激し、人々に「心地よさ」を与えるという。おそらく、いろんな夜会で、王子や王女、貴族の男と女が対になり、時間も忘れて踊り続けたものと思われる。思いを寄せるパートナーとの出合いや駆け引きがあったことだろう。恋人同士で愛を語らい、一緒に揺らいでる時間と空間を共有している姿が、おもい浮かぶ。

 このたび、ハリウッドから全世界に発信された映画「Shall weDance?」のラストシーンで流れている曲は「スウェイ」。「私と踊ってね、そして、あなたの腕の中で、私をスウェイしてね(揺らして、気持ちをぐらつかせて、支配して)。」と情熱的に歌っている。あなたも、この世界に、いちど足を踏み入れてみませんか?

 

 文化の香りを味わう

 2005年5月~7月は、私にとって、医学と音楽に関わるニュースが続いた時期だった。そこで、つれづれなるままに記してみたい。まずは、5月27~31日に、一大イベントがあった。日本プライマリ・ケア(PC)学会が主催する「アジア大平洋地域世界家庭医会議(WONCA Asia Pacific regional Conference 2005)」が、京都国際会議場で開催されたのだ。世界から約2600名の参加者があり、黒川清氏(日本学術会議会長)や尾島茂氏(WHO西大平洋地区事務局長)による教育講演などもあった。また、グローバル・スタンダードとしての家庭医療・一般医療に関するシンポジウムや、教育や研究のワークショップが企画され、一般演題としてのポスターセッションでも諸外国のPC医療の現状が報告され、活発に議論がなされた。このような学術部門に加え、ソーシャルプログラム部門もあり、私は本部門の責任者を務めた。と言えば何となく格好がよいが、実際はいわゆる宴会部長としてパーティを盛り上げる役割である。つまり、Welcome PartyおよびFarewell Partyで司会とピアノ演奏・伴奏を担当したのだ。音楽に国境なしと言われているように、国や言葉を超えた交流で親睦が深められ、皆さま方に喜んでいただけたと思う。後になって、WONCA本部や諸外国の参加者から、「京都2005はsuccessfulでexcellentだった」と高く評価され、世界大会の開催までも打診されたとお聞きした。当然、学術部門の内容が素晴らしかったのが主な理由だろう。しかし、最初と最後のパーティの雰囲気が、少なくともお役にたてたものと思われ、関係者は嬉しく思っている。そのパーティを歌で盛り上げた先生方は、いずれもPC学会の幹部である。通常の臓器別専門の医学会とは異なり、機能的専門家であるPC医が集まる当学会のメンバーは、柔軟性に溢れ、芸術や文学に精通している先生方が多いのが特徴。特にカンツォーネ「オ・ソレ・ミオ」でヤンヤヤンヤの拍手喝采を受けたのが、副会長の田代祐基先生。以前から、内外の会で私の伴奏でエンターテイメントを披露してきている。会員による余興のためプロのミュージシャンを雇う必要もなく、学会の経費節減に大いに貢献しているだろう。

 6月下旬、その田代先生(熊本県医師会理事)のお声掛けによって、私は熊本にいた。熊本県四病団体支部1)による合同研修会として、音楽療法講座を企画していただいたのである。熊本城の近くにある熊本ホテルキャッスルで研修会が行われ、会場設営には田代先生の斬新なアイデアがふんだんに盛り込まれた。スクリーンとグランドピアノはいつもと同じだが、通常と異なるのは椅子の置き方だ。スクリーンと演者を丸く半円形で囲むように座席を設置し、まるで円形劇場のようだ。講演中でも聴衆や観衆は座席でじっとしている必要はなく、部屋の両サイドにあるコーヒーやクッキーを、いつでも好きな時に自由に取って食べる。まさにPlease help yourself方式で、肩が凝らず和やかな雰囲気となり、「これは今後も使えるぞ」と感じた次第であった。私のレクチャーには、ピアノの生演奏や動画、ストレッチ体操などが含まれる。だから、真面目な講演というより、むしろステージを楽しんで頂くようなもの。聴衆は大声で歌って熱くなったり、私の駄洒落で寒くなったりと、温冷刺激による温熱効果まであるのだ。いろんな趣向のおかげで、研修会は大成功だった。講演後、当地の馬刺しを御馳走になりつつ、歓談しているときのこと。事務局の方が即興の和歌をさっと毛筆で書き下ろし、田代先生が微笑みながら批評し指導している。私も川柳が好きなので、なるほどと思いつつ、球磨焼酎の香りとともに、文化・芸術の香りまで、楽しませていただいた。この機会に、念願のラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn、小泉八雲)の生家を訪れることができた。市の中心部の一角に、静かなたたずまいがある。ギリシアに生まれて英国で育ち、米国で新聞記者となり、文壇にも登場。1890(明治23)年、島根県の松江中学校に赴任し、翌年熊本の第五高等中学校へ。1896~1903年まで東京帝国大学の講師を務めた。八雲が書いた小説で、よく知られているのが「怪談」。その中には、耳なし芳一のはなし、雪おんな、おしどり、お貞のはなし、などがある。原文と和訳の一部を示すので味わってほしい。☆Some centuries ago there lived at Akamagaseki a blind man named Hoichi, who was famed for his skill in recitation and in playing upon the biwa. ‥‥☆幾百年か前、赤間が関に芳一という名の盲人が住んでおりました。芳一は琵琶を奏でながら吟じるのが巧みなことで知られていました。 ‥‥英文は平易でわかりやすい。声を出して読んでみると、強弱の2拍子のリズムが感じられる。八雲の文章は、推敲をかさねて無駄がなく美しい英文であると評価されている。美しい日本の原風景や熊本ゆかりの内容を、英文で世界に紹介した功績はとても大きいと思う。興味深いことには、夏目漱石が松江→熊本→東京と移動した同じルートを、直後に八雲もたどっている点だ。漱石が辞任させられた帝大講師のポジションに八雲が直後に着任するなど、不思議な縁でしばしば比較されている。

 漱石が熊本滞在中に「我輩は猫である」のモデルとされる旧居も訪問できた。これに隣接する洋学校教師館は、西南戦争の際に征討大総督の御宿所となり、博愛社(日本赤十字社の前身)の発祥の地ともなったところだ。上記に加えて、熊本のキーワードを挙げてみると、熊本城、武者返し、加藤清正、治水土木工事の神様、細川家、宮本武蔵などがある。これらの文化や教育、経済の発展を包括して考えてみると、素晴らしい人々が歴史を作り、文化や自由・自主独立の気風を育ててきたような気がする。7月には、世田谷パブリックシアターで、「新編・我輩は猫である」(シス・カンパニー公演)の舞台を鑑賞した。細君は小林聡美、金之助(漱石)は高橋克実、我輩(猫)は高橋一生が演じていた。舞台は明治38(1905)年で、ちょうど100年前。本作品から誰もが感じることは、「一世紀の間に私達が忘れ、失ってしまったものがどれほど多いことか」であろう。しかし、逆に「不変のものもあり、新しく生み出されていくものもある」。これらの歴史や文化の展開を認識したうえで、将来に向かって進んでいきたいものだ。

 

 ヒポクラテスを訪ねて

 いま私は、医聖ヒポクラテスと一緒にいる。場所は、ギリシャの首都アテネから東へ飛行機で約50分、地中海に浮かぶコス(Kos)島である。本島が有名な理由は、ヒポクラテス生誕の地であるから。彼は諸国で医学を修行したあと故郷に戻り、医学を数多くの門弟に教えた。つまり、コス島が「ヒポクラテス学派の聖地」なのである。2005年9月、世界家庭医学会(略称WONCA)欧州大会が、コス島で開催された。筆者は学会に参加するとともに、ヒポクラテス縁りの名所旧跡を訪れてみた。その一つが「ヒポクラテスの木」である(図1)。医学の父・ヒポクラテスがBC450年頃、この木の下で弟子たちに医学を伝授したとされる。特に「患者のことを第一に考えなさい」と弟子に諭したという。ギリシャは地中海性気候で、温暖で雨が少なく過ごしやすい。この環境で、枝を大きく広げ、掌状の葉が陽光を優しく受け止めてくれる。その木陰で、ヒポクラテスが、弟子を育てている姿が、目に浮かんでくるようだ。植物学的には、この巨木はプラタナスで、ヨーロッパで最も聖なる木とされている。古代ローマの時代には、プラタナスの木陰に人々が集い、もっとも良い庇蔭樹と考えられていた。日本では、明治8~9年頃に渡来したプラタナス(学名Platanus Orientalis)が、「鈴懸(すずかけ)の木」と呼ばれている。街路樹などにも使われているので、御存じの方も多いだろう。「ヒポクラテスの木」を訪れた医師が種子を持ち帰り、日本の医学校のキャンパスにも植えられている。ちょっと調べただけでも、信州大学、九州大学、山形大学、東京大学、高知医大、金沢医科大学などで、木のゲノムが子孫に伝えられ、年輪を重ねているようだ。国際医学会のテーマは「ヒポクラテスからゲノムまで」であり、アテネ大学の内科教授が本テーマで基調講演を行った。図2が講演で最初のスライドである。ヒポクラテスの言葉として、よく知られているのが「VITA BREVIS ARS LONGA、OCCASIO PRAECEPS、EXPERIENTIA FALLAX、JUDICIUM DIFFICILE ・・」である。英語に訳すと「Life is short, and Art is long:time fleeting; experience erroneous, and judgement difficult ‥」となり、さすがに名言だな、と思う。この中で、最初の部分「Art is long」が、議論のポイントである。つまり、「技術が長い」のか、「技術を修得するのは時間がかかる」なのか、2つの解釈が可能となってくるからだ。この考え方については、長年議論が続いてきている。従来、本邦では「芸術は長く、人生は短い」と訳され、知られてきた。しかし、本来、artとはarmに由来する言葉であるので、芸術というよりも、腕、技術、学芸、勉学に近い意味である。従って、次のフレーズ[time fleeting](光陰矢のごとし)を合わせて考えると、「勉学を継続しある程度にまで到達するには、人生は余りに短い」と解釈するのが、妥当かもしれない。ただし、英語でも日本語でも、暗喩として複数の意味が込められているものが、心打つ言葉となるものだ。特に、コンパクトにまとめられた一説ほど、作られた時代と場所を把握しなければ、正確な解釈は難しいだろう。「VITA BREVIS ARS LONGA」の本当の意味は、ヒポクラテスにお聞きしなければ、わからないのかもしれない。ヒポクラテスが唱えた言葉に、Physis(ピュシス)がある。これは「自然の力」を意味するもので、Physisを増進する一つが音楽であろう。

 アテネに滞在中、BC6世紀に建てられたパルテノン神殿があるアクロポリスを訪れた。ディオニソス劇場やイロド・アティコス音楽堂の規模に驚いた。円形劇場で数千人が集うことができる。古代ギリシャ劇場は豊饒のお祭り広場であり、人々は陽気に歌い踊ったという。この集団はコロス(choros)と呼ばれ、コーラス(chorus)に派生した。ギリシャ語で、踊る場所(オルケスターイ、orcheisthai)からオーケストラ(orchestra)が、そして、見る(テアスターイ、theasthai)からシアター(theatre)という単語が生まれたのである。当時、ステージでは、どのような歌や踊りが披露されたのだろうか? 民族舞踏で有名なレストラン「ネオス・レガス(ΝΕΟΣ ΡΗΓΑΣ、Neos Regas)を紹介してもらい、早速足を運んでみた。ブズキ音楽やベリーダンスなど多彩な演出を楽しんだ。パ予想していた通り、フォークソング調の音楽で、みんなで歌いながら手を組み輪になって踊るのが特徴のようだった。私は外国に行くと、必ず博物館に立ち寄ることにしている。歴史的な芸術文化の品々が集められているので、その国の全体像を、最も効率良く把握できるからだ。 国立考古学博物館(ΕΘΝΙΚΟ ΑΡΧΑΙΟΛΟΓΙΚΟ ΜΟΥΣΕΙΟ、National Archaeological Museum)には、本国の遺跡の出土品のほとんどが収められている。じっくり見学すると半日以上はかかる大規模なものだ。私の目を奪ったのが、1884年にケロス島で発見された音楽人像である。「竪琴を弾く人物像」と「フルートを吹く人物像」は、キクラデス文明の中で、2800-2300BC頃のもの(図3、4)。いずれも大理石性の小さな彫像であり、その立体構造は、専門的見地からも当時の特徴に一致する。これほどの質の芸術作品を生み出せることは、これに先行し芸術を育む時代が存在したことになり、驚嘆に値するものであろう。世界で民主主義発祥の地はギリシアだ。BC7世紀頃に選挙制度も作られ、BC4~3世紀に学問と芸術が発展し、偉大な哲学者ソクラテス、プラトン、アリストテレスが活躍した。アリストテレスにより唱えられた「カタルシス理論」が、20世紀になって米国の精神科医アルトシューラーが発表した「同質の原理」へと展開していく。

 今回は、医学の父であるヒポクラテスによるart of practice of medicine(医の実践のアート)を再認識でき、ギリシアの歴史・文化も堪能でき、充実した出張となった。

図1 ヒポクラテスの木  図2 ヒポクラテスからゲノムまで  図3 竪琴を弾く人物像  図4 フルートを吹く人物像

 

 ゲーテの詩と音楽

 フランクフルト国際空港に私は降り立った。列車に乗り15分で中央駅に到着。古風な感じの町並みで、銀杏(イチョウ)の絵やイラストをよく見かける。イチョウ並木でもあるのかと思いながら歩き、ガイドブックが示す目的地に着いた。訪れたのは「ゲーテハウス」。入口のサインボードがなかなかお洒落だ(図1)。ゲーテの生家と博物館が一緒になった5階建ての屋敷で、裕福な家柄とわかる。中に入ると、ゲーテ縁りの品々が数多く収められている。階段を昇っていくと、ゲーテの肖像画が出迎えてくれた(図2)。ハンサムで知的な雰囲気だ。近くには、ゲーテ自身が愛用した机がどっしりと構える(図3)。これが歴史的傑作を生み出した机なのか。私にもその能力を授けてほしいと、祈りを捧げてはみた。世界的詩人ゲーテの名前は、Goetheと綴る。その発音は、Go"theとウムラウトのo"があるため、オと喋るつもりで口を尖らせてから、エとしゃべってみるとよい。すると「ギョエテ」とやや奇妙で曖昧な発声となるのが、本来の発声に近い。ゲーテの業績は膨大だ。展示物の中で興味深く感じたのは楽譜が多いこと。実はゲーテの詩に多くの作曲家が曲をつけていた。モーツアルトは1曲、ベートーベンは5月の歌など10曲以上、シューベルトは魔王など50曲以上に至る。たとえば有名な曲に「野ばら」がある。ドイツ語の題名は、Heidenro"sleinで、Heiden(荒野の)+Ro"slein(バラ) という意味。

 原語の歌詞はSah ein Knab' ein Ro"slein stehn, Ro"slein auf der Heiden,……と続く。この詩に対して何と約100種の野ばらが作曲されている1)。ベートーベンも作り、日本で有名なのはシューベルトとウェルナーの2つ。ウェルナーの楽譜には、シューベルトのEinfluβ(影響、感化、合流)のUnter(の下で)1829年に作曲したと記されている(図4)。野ばらの歌詞を、近藤朔風の訳で示す。

1番:童は見たり 野中のばら清らに咲ける その色愛でつあかず眺むる 紅におう 野中のばら

 実は、野ばらの詩とゲーテの失恋とが関係あるというのをご存じだろうか。20歳のゲーテが大学で学んでいるとき、可愛い娘フリーデリーケと恋中に。結局彼は彼女との関係を断つが、良心の呵責の念はずっと消えなかったという。この詩には、ゲーテの苦しい心が滲み出ているのである。2番と3番の内容をチェックしてみよう。

2番:手折りて行かん 野中のばら 手折らば手折れ 思い出ぐさに 君を刺さん 紅におう 野中のばら 

3番:童は折りぬ 野中のばら  手折りてあわれ 清らの色香  永久にあせぬ 紅におう 野中のばら

 バラという花は彼女を、手折るとは関係を持つこと。原文では、少年が「折っちゃうぞ」、薔薇が「あなたを刺すわよ」とのやりとりがある。だから、色っぽい情景を伝えているのだ。名前や発音も曖昧なら、詩の表現も曖昧にして、比喩的に深い意味を包含しているのである。ここで、日本のフォークソング「バラが咲いた」(浜口倉之助作詞作曲)について考えてみよう。  バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラがさびしかった僕の庭にバラが咲いた…… 野ばらの影響があるように感じないだろうか。

 ゲーテハウスで、イチョウのイラストを見つけた。スタッフに尋ねてみると「銀杏は認知症の薬だから」との返事。ああ、そうだった。銀杏は、脳内の血行を促進するサプリメントとして、欧米で広く処方されているのを思い出した。銀杏の国際的な名称は「gingko biloba」。この語源について、本来「銀杏」を読み間違った発音がそのまま伝わったという。英語ではgingkoと綴り、発音はギンコウとなったのだ。銀杏の葉は、gingko bilobaと訳す。biとは2つの、lobeとは「葉、裂片、突出部」のこと。肺の上葉、下葉というあのlobeである。そういえば、銀杏の葉の形は、両側に2つ突出部がみられる。ゲーテが銀杏を詠んだ詩を紹介しよう。Gingo Biloba (1815) >(独)Dieses Baums blatt, der von Osten Meinem Garten anvertraut, Gibt geheimen Sinn zu kosten, Wie's den Wissenden erbaut.(1) Johann Wolfgang von Goethe (ゲーテ) 

 これを英訳したのが下記である。Gingko Biloba (1815) >(英) This tree's leaf that from the East To my garden's been entrusted Holds a secret sense, and grist To a man intent on knowledge.(1)日本語に訳してみると、この木の葉は、東洋の国から渡来したそして私の家の庭に植えられた葉っぱが放つ神秘的な香りと効能は研究に勤しむ人のように格調高い。この4行に続く8行を英語で味わってみよう。Is it one, this thing alive, By and in itself divided, Or two beings who connive That as one the world shall see them?(2) Fitly now I can reveal What the pondered question taught me; In my songs do you not feel That at once I'm one and double ?(3)

 これにはゲーテ特有の比喩が含まれ、直接的な理解は難しい。おそらく「葉っぱの先は2つに分かれている。いずれもが個人と仮定すれば、お互いに一緒に育ち協力したり、暗黙で了解したり、反目したりする。歌を歌えば、心の中の2個の自分が、一つになったり二つになったりする」いうような意味かもしれない。

 最後に、フランクフルトといえば、医学で有名な学者を御存じだろうか。かの有名なフランクフルト市立病院のアルツハイマー博士が、痴呆患者の脳組織を研究し、世界に発表したのだった。当地は学術的な著名人を輩出しているのだ。なお、ゲーテ(1749-1832)の能力と脳力はずっと元気で、82歳という長命だった。彼の詩に曲をつけた同時期の作曲家として、モーツアルトは35歳、シューベルトは31歳、ウェルナー は33歳、ベートーヴェンは57歳と短命だった3)。もしかしたら、ゲーテが銀杏をいつも服用していたからこそ、認知症もなく長生きしたのだろうと、私は推理しているところである。

資料1)「野ばら」の研究者の坂西八郎・元信州大学教授が「わらべはみたり…『野ばら』88曲集』、「楽譜『野ばら』91曲集」、「野ばらの来た道」を出版している。2) ゲーテ(1749-1832)、モーツアルト(1756-1791)、ベートーヴェン(1770-1827)、シューベルト(1797-1828)、ウェルナー (1800 -1833)と、ゲーテが存命中の時期に、これらの作曲家が活躍した。3) 著者HP http://hb8.seikyou.ne.jp/home/pianomed/

図1 ゲーテハウスの玄関 図2 ゲーテの肖像画 図3 ゲーテが愛用した机 図4 ゲーテ作詞、ウェルナー作曲の「野ばら」の楽譜

 

 苦悩から安らぎへ

 本稿は、医学と音楽のシリーズの49回目である。12年を超えて長く続いてきたと思う。49という数字は、私が好きな数字の7、ラッキーセブンの二乗に相当するものだ。ところで、昔から日本では、欧米とは異なり、4とか9とかいう数字が忌み嫌われてきた。その発音から4は死、9は苦のイメージに関わってくるからだ。特に、両者が合わさる49という数字はよろしくない。仏教の教えにある四苦八苦を連想することになる。数字で表すと、4X9=36、8X9=72となり、両者を合計すれば108。従って、人間の煩悩は108個あると昔から伝えられているのだ。

 筆者が小学生のとき、大好きだったテレビ番組が「巨人の星」だった。今でも覚えている一つの場面がある。星一徹が星飛雄馬に「硬式ボールの縫い目は108あり、煩悩の数と同じなのだ」との話。1年の最後の日、大晦日に、108個の鐘の音を聞きながら、行く年、来る年について熟考すると、悟りがひらけるかもしれない。このような仏教の話で恐縮であるが、人生の苦悩を音楽で表現し、歴史に名を残した著名な作曲家は、鬱病やそううつ病などを病み、精神的・心理的に問題がみられた場合が少なくない。このような作曲家たちが集まって、一緒に眠っている場所があるのをご存じだろうか?

音楽の都として知られるオーストリアの首都ウィーンを訪れたとき、筆者がまず立ち寄ったのは「ウィーン中央墓地(Zentralfriedhof)」であった。欧州最大規模の敷地を持つ市営墓地であり、埋葬数は4百万人にのぼる。ここに有名な「楽聖特別区」(第32区A)の一画がある。モーツアルト、ベートーベン、シューベルトの墓が並んでおり、観光の名所の一つとして有名だ。すぐ傍らには、同じ音楽家としてブラームスとヨハン・シュトラウス2世の墓がある。さらに、胃の手術の術式で歴史的に名前が残っている有名な外科医ビルロートの墓も、その近くで静かに佇んでいる。著名な作曲家たちの中で、ベートーベンが苦悩の人生を送ったのは広く知られている。最後の交響曲第9番「合唱」(歓喜の歌)は、別名「第九」とも呼ばれる。年末には全国各地で演奏会が開催されるなど、日本人の生活に密着した存在だ。なお、私がつけた別名は「大苦」である。

 今回は、これらの作曲家の中でブラームスに注目してみたい。その理由の一つは、彼が真面目で優秀な音楽家であったゆえ、鬱病にかかるなど、苦悩があったから。他の理由は、ブラームスが19年かけて完成した交響曲第1番が、後に「ベートーヴェンの10番目の交響曲の様だ」と語られ、現在に至っているからである。それでは、ブラームスの生涯について、医学や心理面を中心に紹介しよう。 ・1833 年、ハンブルクにコントラバス奏者の父 のもとで出生。 ・10歳 室内楽演奏会にピアニストとして出演。 優れた音楽家マルクスゼンに師事し、バッハ、 モーツァルト、ベートーヴェンを深く研究し、 技巧をマスターした。この教育の方向性により各作曲家の価値を探究し尊敬したのだろう。 ・11歳 ラテン語フランス語等を学ぶ。優秀であるがゆえに鬱病にも陥り、18歳時には自己批判から作品を破棄してしまったことも。 ・20歳 歴史と哲学の講義を傾聴。シューマン夫 妻宅で自作のソナタを演奏し高く評価された。 シューマンは音楽評論誌に「新しき道(Neue  Bahnen)」と題し、天才の出現を記載。 ・21歳 シューマンが投身自殺をはかり、その後、14歳上のシューマンの妻クララと親しくなり、以降、深い友情で結ばれた。 ・25歳 ソプラノ歌手アガーテと熱烈な恋に落ちる。彼女への愛はブラームスの生涯で最も真剣なものだったが、結局婚約を破棄される。 ・32歳 胃の手術で有名な外科医ビルロートと会う。バーデン・バーデンの温泉療法で過ごす。 ・45歳 ビルロートとイタリアへ旅行。作曲したヴァイオリン曲は牧歌的、田園的で、風光明媚 な雰囲気や旅行の印象が垣間見られる。 ・46歳 ブレスラウ大学から名誉博士号を授与され、お礼に翌年「大学祝典序曲」を贈る。 ・56歳 トーマス・エジソンからの依頼で「ハンガリー舞曲第1番」を蓄音機に録音。この際、初めて自身の老いを自覚したという。 ・57才 意欲の衰えを感じ、作曲を断念しようと決心して遺書を書き、手稿の整理を開始。 ・61歳 友人でウィーン大学教授であるビルロー トが没す。 ・62歳 オーストリアのフランツ・ヨーゼフ皇帝 から、芸術と科学に対する金の大勲章を授与。 ・63歳 ベルリンで大学祝典序曲と2曲のピアノ協奏曲を指揮し、最後の指揮となる。鉱泉飲用 療法でカールスバートに滞在。体力低下。 ・64歳 演奏会で、やつれたブラームスの姿に、 聴衆は各楽章ごとに、愛情と敬意で激しい拍手、 感涙にむせんだ。肝臓ガンによって昏睡に陥り4月3日永眠。4月6日ウィーン中央墓地に埋葬された。

 「新古典派」と呼ばれるブラームスの特徴は、その重厚な音の構成である。ピアニストでもある筆者がラプソディという曲を演奏するとき、ピアノの鍵盤で一番低いラの音の鍵盤(27.5ヘルツ)を弾く。この音がグワーンと響くと、会場の床が振動し、身体が震えてくる。ブラームスのピアノや歌曲では、豊かで力強い音を響かせるため、ピアノの重低音をうまく使う場合が多い。音響学的に説明しよう。ピアノの鍵盤で低いドの音を弾き、ペダルを踏んで弦を自然に鳴らしてみる。すると1オクターブ上のド(2倍音)、ソ(3倍音)、ド(4倍音)、ミ(5倍音)、ソ(6倍音)・・と、多くの音程の弦が共鳴してくるのだ。つまり、一つの弦を響かすことは、単音ではなく、倍音として多くの弦が一緒に共鳴し震えている状況と言える。

 さて、ブラームスの性格と生育歴との関係を分析してみたい。ブラームスはベートーヴェンに近い個性を有していた。自然が好きで、よく散歩に出かけた。一方、人との付き合いが下手で、社交嫌い。無愛想で皮肉屋、自分の気持ちを率直に伝えることが苦手で、恋愛下手な性格であった。これらはなぜだろうか? 1つは、遺伝と環境因子として、頭は良く、最初に習った先生の影響があるだろう。自分には音楽の能力があり完全主義者だったので、弟子にも厳しく叱責した。2つめは生育歴だろう。ブラームスが生まれたのは、父27歳、母44歳のとき。高齢出産で大丈夫かと心配するほどだ。

 通常の母の愛に包まれて、というよりも、厳格で祖母のような教育的立場で育てたようだ。だから、いつも若い乙女に失恋し、14歳も年上のクララ・シューマンに生涯憧れ続けたのと関連するだろう。優しい母をずっと追い求めていたのかもしれない。換言すれば、母親との関係が不十分であったために、マザコンの可能性もある。また、彼は音楽関係者としばしば衝突し、友人と決別し数年後に和解するなどのエピソードを繰り返していた。

 一方、友人として誉れ高い外科医のビルロートとは長年うまくつきあうことができた。その理由は、ビルロートは医者で、専門が異なるため、いざこざが少なく、ビルロートも紳士としてつきあっていたのだろう。とにかく、ブラームスの仕事には、ビルロートの支えが大きくプラスになっていたようだ。本稿では、最初に4と9の話をしたが、不思議なことに、音楽との共通点が認められる。ピアノの鍵盤で、音階に数字をあてはめる。つまり、ドが1、レが2、ミが3という具合だ。通常、和音の基本はドミソと135なので、昔から5の和音と呼ぶ。ポピュラー音楽の和声学が次第に広がってきた。すると、ドミソの基本和音にラ(6)またはシ(7)を常にプラスする方法が普及してきている。これらは6の和音、または7の和音と呼ばれている。また、ドビュッシーが多用したのは、レ(2)をしばしば加える和音だ。以上をまとめるとドレミファソラシの中で、ファ(4)を除き他の白い鍵盤をすべて同時に弾くと、現代風で安らぐ和音となる。不思議なことに、すべてを包含し統合する方向性に、和音も何事も進んでいくような気がする。